超訳コーランの言葉で幸せの指南

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【執筆者】アルモーメン・アブドーラ(東海大学・国際教育センター准教授)

 

嫌なことこそ、良いことを運んでくれるかもしれない。また、好きなことこそ、悪いことを運んでくれるかもしれない(雌牛章205) 

 

日本古来には適当な言葉はないと思うが、日本人であれば同じ場面で「万事塞翁が馬」を思い出すに違いない。

 

日本人の宗教観が一枚岩という話はなく、それは島原の乱を見れば分かる通りである。今でも隠れキリシタンとしての伝統を受け継いでいると聞く。こうなるとそれは宗教というよりも日常であろう。生活の中に入り込み日常の一部になってしまったものを、我々は宗教と呼ばない気がする。

 

宗教の良い点は仲間意識にある。集団の形成のしやすさ、もちろん、これは乱を起こすのに便利である。そのような宗教をバックボーンとした争いの歴史は、一向一揆にしろ、太平天国の乱にしろ、アジアにもある。もちろんヨーロッパにもあったはずで、カトリックプロテスタントの争いなど幾らでもあろう。

 

現在の中東で起きていることは、ある意味ではどの宗教も必ず通ってきた過程かも知れない。それが現在に起きているだけと。イスラム教はそれが今おきたのだという話だ。

 

遅れてきたこの宗教戦争は、しなくてもいいのではないか、とテレビのニュースを見る度に思う。だが、それは他の宗教や他の地域が、既に終わっているから言える事であって、当事者たちにとってはどうしても通らなければならない道かも知れない。

 

キリスト教徒にも原理主義者はいる。アメリカでは進化論を教えることを禁止する学校もあると聞く。彼らが銃を持って国を作らないのは、単なる偶然であろう。歴史が一歩違えば、テロリストはキリスト教徒だったかもしれない。実際にキリスト教徒からもあの騒乱に身を投じる若者がいると言う。日本からも参加した人がいると聞く。仏教徒なら平和か?ロヒンギャを見ればその真偽は明らかだ。

 

もし。イスラム教がアラーを神ではなく、天と呼んでいたら。コーラン孔子のような読まれ方をしてきていたら。

 

もし。孔子の天が一神教の神として扱われていたら。そうなっていたらアジアの宗教はずいぶんと違ったものになっていたであろうし、その風をモロに受けて思想を磨いてきた日本人の思想も今とは全く違ったものになっていたであろう。

 

高い城の男ではないが、こういう空想を広げるのは楽しい。だが、どうしても自分の壁から外に出るのは難しい。

 

日本人が宗教を知らないのではない。明治維新の頃の話を読めば宗教を知らないという感じはしない。だから今の宗教観は、どこかでがらっと変わったのだと思う。

 

恐らく。それは敗戦によって決定的になった。そう考えられる。あれだけの命を散らせても神のご加護は起きなかったのである。もう無理に決まっている。バカバカしい。見放されたか、神はいないかのどちらかだ。それが我々の率直な宗教論であろう。

 

そう言えるようになった戦後の価値は大きい。これは他の国の人には恐らく分かってもらえない。分からないほど我々は徹底して命をかけた。かける程度では足りず、馬鹿のように浪費した。

 

薪をくべるくらいの気楽さで命を戦場に投じた。バカバカしい。あの戦争は日本人にとっては宗教戦争だったのだ。信仰を頼りに戦争をした。

 

だから、我々はどんな神だってファッションくらいにしか思わない。命を投じた量が違うのだ、そう誰もが思っている風がある。その奥底の底のまたその底にある無意識で。

 

中東で起きている悲しいニュースを見る。なぜ戦争は止まらないか。彼らもジェノサイドの淵に立つまでは、進みづづける気なのか。その後の笑顔はどれほど晴れやかになるか。