森保?手倉森? 次期代表監督 クリンスマン、ベンゲルより日本人が有力な理由 〈週刊朝日〉

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サッカーのルールは詳しくない。それでも、監督について考えてみる。

 

サッカーであれなんであれ、停滞という事は考えられない。戦術も選手も常にゆく河の流れである。よって監督の仕事には少なくとも二つはあるはずだ。

  1. 現在の状況に対して最高のパフォーマンスを狙う事
  2. 将来の拡張に対して今から準備する事

 

これらの複合の要求に対しては、目標が立てられなければならない。目標があるということは期限があるという事だ。時は金なりとはよく言うが、お金というものは期限を切らなければ価値を産まないという話なのである。資本主義とはお金の交換に時間的成約を強く付加したものと言えるだろう。

 

資本主義の特徴である私的所有とは、つまり私的である以上、時間切れが必ず起きる。その時、その財産を家族に継がせれば、それは私的所有の側面は次第に小さくなる。次第に家族所有となって硬直してゆく。そうなれば徐々に衰退するであろう。

 

マルクスは私的所有の問題点、資本の集中と格差の巨大化を問題と見て、ひとつの仮説で論を進めた。資本の力を保ったまま問題を解消するには、私的所有ではなく、公的な所有という概念を導入したらどうだろうかと。

 

結果として、資本家は駆逐された。その変わりにインテリが所有する国家が出現した。その国家が硬直する速度は資本主義よりもずっと早かった。この壮大な社会実験によって共産主義は失敗であると結論した後に、世界は中国の台頭を目撃するのである。

 

衰退しつつある日本と比べれば、中国はあらゆる価値観が全く逆にある。それゆえに、どうしてあの国がこれほど強力で野心にあふれるか理解できない部分もある。別の見方をすれば彼らはとてものびのびとしているのだ。

 

社会には政治的な自由も言論もなく格差の解消もない。弱い人達の涙は一日で消えゆく乱暴な話も聞く。それでも優しくも逞しい中国の人たちは、支配層であれ民衆であれ模索を続けている。彼/彼女らには彼/彼女らの理想が確かにあるようだ。

 

資本主義が資本の最大の投入という点では、従来の経済体制よりもずっと大規模で一気呵成的である事は確かのようだ。資本の集中が可能なのは私的所有があるからだ。それを個人の資質と才覚に賭けるシステムという点では一種の博打である。

 

だが、合理的精神と時機を間違えなければ資本は何倍にも増幅する。ここを個人に分担させるのが最も期待値が大きい。少なくともこれまではそうであった。今後はAIがとって変わるとしても。そのためには個人が可能な限り自由に振る舞える方が望ましい。自由資本主義である。

 

個人の才覚に依存する経済システムではあるが、これを支えるものが労働である。この労働には資本家も含んでも構わない。資本主義が他の資本の蓄積と圧倒的に違うのは、勤勉という価値観を持つ労働層の存在である。と小室直樹の本で読んだ気がする。では勤勉を支える理念とは何か。何が勤勉を生み出すのだ。それが信仰であるという話である。

 

奇妙な事に近代資本主義では労働が信仰の告白と同等の価値を持った、と主張されるのである。働く事が神への信仰と一致するなら、誰が手を抜くだろうか。誰が不誠実でいられるだろうか。金の亡者と呼ばれる者でさえ、それがひとつの信仰であるには違いない。

 

神が見ているからサボら(れ)ない。嘘をつか(け)ない、良心に恥じる行為はし(でき)ない。献身を生みだす動機はそういう所にしかない。ファラデーが熱心な信者である事と電磁気学に対する先験的な科学者として間には何ら矛盾はない。科学を信じるものは神を信じないという迷信を信じる方が余程な思い込みであろう。

 

ターンAを生んだ富野由悠季が本人が最も気に入っている創作や思想が、観客が最も興奮し没入する場所とは違うかも知れない。だが、その最高の場所を得るためにそれが欠かせないのなら、それを否定するなどできはしない。ちょっとしたズレが作品を最高の場所に押し上げるのは不思議は話ではない。

 

鶏の口は餌を食べるばかりで卵を生む場所ではないからと、頭を切り落とす愚をしたくはない。

 

監督に求められるものは、勤勉さと創造力の総和であろう。どちらかが欠けても面白くない。

 

勤勉さは、どれくらいよく好きか、どれくらい知っているかを聞けば分かる。創造力は、どれほど素晴らしいプレーや試合に驚けれるかを見れば分かる。どれほど打ち砕かれてきたか、何に驚き、何に敗北してきたか、それを聞けば十分だと思う。

 

スポーツが運も含む競技である以上、必ず勝てる試合など存在しない。世界のトップに近づけば近づくほどそうなる。そうなると、選手が日本人であるという制約はあっても、監督が日本人であるべきという根拠は何もないはずだ。

 

サッカー選手でさえ海外に出る。彼らは国外の監督とも、直接、監督が使う言語で会話するであろう。自分の意見をぶつけ、回答を得て、模索するだろう。

 

コミュニケーションにおける言語が、果たしてどれくらいのアドバンテージになるか。優れた人間が人種に依存するはずがない。国内にいても最先端の情報を得ている人はたくさんいる。そこに自己流の創造力を加えて改良する人もたくさんいる。

 

よって日本人と国外の人の違いは文化としてのバックボーンしかない。それさえも、民族や国家というよりも、その人の歩んできた道にどっぷりと根ざしたものになっている。そこにおいて日本的な文化との親和性というものが効果的になる。

 

それを知っている人がいいのか、知らない人がいいのか。知っている人なら、その能力を最大に発揮できるだろうし、知らない人なら、新しい出会いが期待できる。異なるものを混ぜ合わせて化学変化を起こすのは変化のためには欠かせない。

 

いずれにしろ、人種、民族など判断基準にならない。それよりもコミュニケーション能力、文化的違いに対する相互理解、そこから生まれる新しい模索などが重要だろう。だとすれば、これは監督の仕事ではない。それをバックアップする人たちの総合力の勝負という話になる。

 

よって監督が誰になるかなど下らない話と結論できる。そういうのは専門家が存分に議論すればよい。西野監督も最初はどうなるかと思ったが十分な結果を残した。疑問な手もあったけれど結果的には徹底的に最後まで倒れずに戦う人であった。

 

どのような体制で全体をバックアップするか、そういう組織論で語るべき話である。だが、日本はとても個人主導の文化である。個人への依存性が強い集団である。だから組織の形成は非常に下手である。個人の入れ替えをとても嫌う。イギリスの選手が奥さんの出産のため戦列を離れたが、そういう事を許すのは組織的な文化を持つからである。

 

組織的な文化では、個人に頼らない体制をつくる。よって個人を入れ替わり可能な状態にキープしようとする圧力が働く。標準化、マニュアル、ルールの整備は、それを前提とするからだ。そのかわり、個人の自由やわがままをある程度は受け入れる体制に勝手になる。他方で、個人も組織を変えるのにドライな感覚でいられる。

 

個人的な文化では、個人に強く依存したまま組織が形成される。個人は自然が彼の存在を奪うまで置き換えを意図しない。自然と組織は個人の有機的な結合を目指す。それは逆に、組織のために個人に忍耐を強いる事にもなる。それとトレードオフするかのように組織もまた個人をともて重宝する。面倒見がよく、家族も大切にする。こうして、個人を偏重する組織は、とても強固な団結力を示す。運命共同体になるのも理解できる。

 

個人的な文化では、個人のパフォーマンスを最大にとろうとする。その個人が傑出していればいるほど、全体でそれを最大にしようと働く。

 

ロシアのワールドカップでファンタジスタを擁するチームがことごとく敗北したのは、個人的な組織文化を持たない事の脆弱性ではないか。一方で日本が負けたのは他を圧倒するファンタジスタを有さない個人的な組織文化だったからではないか。

 

日本は「個」から始まる。個が個を保ったまま如何に組織の中に受け入れるかを教育する。だから以心伝心を重視する。余計なコミュニケーションがなく理解できればそれが一番いい。このようになるまで教育するのは大変なコストがかかる。ほっといても文化的に単一性になる。

 

話せば分かり会える、では遅いというのが古来からのやり方だ。目を見れば分かるじゃないか、という集団を形成する方法論でやってきた。だから豊臣秀吉が大陸に進出したら敵の将兵をちっとも懐柔できなかったという話がある。口に出さないと分からないよ、というのは恋愛だけで十分なのである。

 

どういう集団を組織化するか。そこからまず考え始めなければならない。監督が決まるとは、それによってこれが決定できるという意味しか持たないかも知れないのだ。どのような全体像を形作るかについて、監督が変われば、個であるか、組織であるかが変わる。それが間違えばパフォーマンスはまるで変わるだろう。

 

そういう文化的な特徴はアジアとヨーロッパでも当然ながら異なる。アジアの中でさえ異なると思う。同じ日本人であってもどちらに重きを置くかは個人によって違うだろう。