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トランプ政権、元ナチス看守を国外退去「容赦しない」

www.huffingtonpost.jp

 

ナチスの存在は、今もヨーロッパに暗い影を落としているし、決して終わった過去ではない。それはキリストを張り付けにした事実がすでに過去となった経験とは大きく違う。

 

ドイツは今も難民問題に積極的に取り組むが、その背景にナチスへの反省があるのは間違いない。そして理想と現実の乖離は限界を迎えつつある。彼らが自分たちの原理に押しつぶされるのは時間の問題であろう。

 

そして、そこが本当のナチスとの対峙の始まりなのだ。今はチェルノブイリで言えば、石棺化したに過ぎない。覆い隠して二度としてはならないと話している程度だ。ドイツはここからが本当の正念場と言えるし、そこに難民という問題が重なったのは好機とみるべきだろう。というかそう考えるしかあるまい。

 

関係者が今も存命している間は事件は終わらないと短期的に考えるなら、ナチスが完全な過去になるまでにはあと30年は必要だろう。過去になったからといって、その歴史が失われることはない。もう一度、同じことをするかも知れない、その思いが歴史に取り組むひとつの動機だろう。

 

だから、最近の日本で歴史が実に浅薄になったのは、何かを意味していると思う。観応の擾乱応仁の乱が話題となり、新九郎、奔る!が品薄状態で重版出来じゅうはんしゅったいされるとしても、歴史は軽んじられている。現実世界との乖離を著しく感じる。

 

そもそも重版出来など、編集部の読み違いであって、喜ぶべき事象ではない。社会とのずれがあるのだから、大丈夫かと自答すべきである。しかし、市場というものは一種の自然であるから、恵みと受け止めるのも悪くない。売れない時に、雨乞いするのも道理が通っている。

 

さて、この人も最後にこのような目に合うとは思っていなかっただろうが、ジェノサイドに加わった経歴は、ずうっとつきまとう。のみならず、後世からも利用されるわけだ。

 

君の経歴の不幸を呪うがいいとは誰れの言葉だったか。いまだ許されないという意味ではアウシュビッツは象徴的である。そして、これが存在するおかげで、どれほどの悪行が話題にならずに済んでいるか。

 

アウシュビッツは特筆すべき人類の行動である。何がこれほどまでのシンボル化を推し進めたのか。と書けばユダヤ陰謀論が生まれるのも不思議はない。

 

なぜドイツだったのか。関係者が見事に死に切ったから、というのが模範解答になるだろう。敗者にはそういう役割もある。すべてを背負って旅立ってもらわなければ、残された人間の狂気が封じ込められるものではない。生き残ったものたち、未来が残されたもの達にとって、この忌まわしい記憶をどう処分するかは重要な問題である。アウシュビッツなど、早く観光地化しなければ、だれが耐えられだろうか。

 

だからあの中に、ドイツだけではく、ロシアもアメリカもフランスもイギリスも、あの戦争に参加した70か国あまりの起こした残虐がすべて含まれている。だから象徴なのだ。

 

ヒトラーユダヤ人の殲滅を企画した理由は、誰にも分かりはすまい。問題は Motive ではない。Means にある。以下に馬鹿げたことでも良く出来た近代国家の官僚制度はそれを実現してしまう。これまで人類が組織したあらゆる集団よりも圧倒的に、効率的に、効果的に、恐らく、ローマの大軍よりも。

 

と考えれば、アウシュビッツの経験が人類になんら抑止力を与えなかったことは何も不思議ではない。それでもイスラエルパレスチナに対するジェノサイドを堂々とやらないのはナチスの遺産があるからだとすれば、あんな愚劣な行動にも意味はあったのかと驚きは隠せない。

 

次にアウシュビッツが起きるなら、彼らを助けようとは思わない、彼らが現在進めているジェノサイドを見れば、そう考えるのは自然である。彼らがナチスの正当な後継者になると知っていれば、だれが助けただろうか、と自問したくもなるのも当然である。ではアウシュビッツを肯定するのか。ならばパレスチナ人への行動も肯定するのか。もし首肯しないのなら、君は矛盾している。

 

それを否定するのなら、これも否定しなければならない。「蜘蛛は網張る私は私を肯定する」ではないが、結局、ジェノサイドは完全な悪であると肯定するのが完全に正しいと今は思われる。まるで光速度不変の法則だ。

 

世界史的に見て、ジェノサイドを成功させた数少ない国はイギリスである。タスマニア人を絶滅させたのが19世紀末。こういう事件を見るにつけ、イギリスの、自分たちの悪行をきれいに忘れさる能力には感嘆する。どの口でナチスを批判したんだ、という気もしないではないが、チャーチルの「ヒトラーを倒すためなら地獄の悪魔とでも契約する」はお気に入りのひとつである。

 

どうも人間が抱えられる悪の総量には限界があって、それ以上はないものとしてカウントするのではないか。

 

この行動がもちろん、ナチスの行動になんら影響を与えていないのは明らかである。少なくとも抑止力にはなってない。あんなつぶらな瞳をしたバンビを撃ち殺すなんでなんと残虐な人だと言った人が、ユダヤ人を収容するのに何ら気持ちが動かされていないあたり喜劇である。

 

だが、100年毎に少しずつましになっているのではないか、という希望が持てないでもない。もちろん、ツチ族の話を忘れたわけではない、ユーゴスラビアの悲劇も聞いたことがある。今では文化的ジェノサイドという考えもあるそうである。

 

というわけで人間同士が殺し合う自由は認めたとしても、種単位でのジェノサイドは、同時進行で絶賛継続中である。誰も無罪などありえない。自然はなんと冷酷なのか。この星の美しさとは何か。太陽はすべての物質に降りそそぐ。問題は山積している、こんな一人の幸福な老人について考える気など起きやしない。