初入閣の柴山文科相、教育勅語“普遍性持つ部分ある

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教育勅語の成立には、井上毅元田永孚が関わった。山縣有朋が内閣の時である。当時の日本は近代国家の要諦を学び始めたばかりであるから、この勅語がなぜ必要と思われたのか、を考えるには当時の状況を知る必要がある。

 

井上は思想や宗教の自由を侵さないようにと考えた。元田は国家的な思想から人々の役に立つものをと考えた。このふたつの対立は当時からあった。なにも戦争に負けなければ分からないほど当時の人たちはボンクラではなかったのである。

 

1890(明治23)といえば、日清戦争よりも前である。大久保利通はすでに斃れ、江戸幕府から近代国家への切り替え、騒乱が漸く終わろうとしていた時期である。日本の直近の目標は不平等条約の撤回であった。すべてはそのための活動であって、帝国憲法が1889年(明治22年)、教育勅語はその翌年である。これらは国の独立という前提条件の前で憲法発布、議会政治、外交、強兵との関係性の中で読むべきであろう。

 

二 明治憲法と教育勅語:文部科学省 にある通り、憲法はできたが、教育に関するの条文はなかった。また教育を法律で規定するのは、時の政権による偏りを恐れた。そこで、それらに抵触しない形で、全体の教育方針を決める何かが必要であった。

 

そのような背景で作成されたものであるから、内容は具体性に乏しいものであった事は仕方がない。それでも、ここに書かれたものは当時の日本人の理想のひとつであることは間違いない。

 

そこに込められたものが人類の普遍的と思われる価値観と、当時の日本での価値観の混在と考えるのが妥当だ。

 

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
私が思いますに、日本の始まりは宏遠な事件であり、それが徳によってなされたことは深厚です。

 

我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス
人が忠、孝、美を大切にすることがこの国を良くします、よって教育もこれが肝要です。

 

爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ
孝、友、和、信、恭儉、博愛な精神で、學、業、智に勤勉に努め、德を求める、そのような人材が、公に溢れ、法を尊重するようになれば、

 

一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
もし国に難にあれば、義により公のために働き、皇国の発展に資することになるでしょう

 

是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
こういう人間の価値は、現在の忠臣だけではなく、祖先たちも誇りと感じてくれるでしょう。

 

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
こういう価値観は現在の帝国のみならず、過去においても正しく、世界のどこに行っても、その通りであると理解してもらえるものでしょう。

 

朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
私はこういう理想な人間となるよう努力するつもりです。皆さんにもそのようにして欲しいと願う。

 

明治二十三年十月三十日
御名御璽 

 

といった感じか。時代背景を考えれば皇祖皇宗が上げ上げの盛り盛りであるのは仕方がない。道徳と呼ばれる分野の価値観は、当然の話しだが、現在とそう大きくは変わっていないのも明白である。

 

ならば、重要なのは過去から変わっていない部分ではなく、この中に、現在では決して合意できない箇所がある、という点に尽きる。例え「皇国のため」という部分を取り除いたとしても、ここにある考えには同意できない部分があろうかと思われるのである。ここにあるのは公と私の関係ががらりと変わったという現実であろう。

 

当時の日本において、司馬遼太郎も書いたように建国への熱意は相当なものであったと考えられる。それまでの徳川幕府、藩という政治体制が、中央集権に変わった。穏やかな民という存在が、国民、市民、民衆に変わっていった時期である。その頃の人々にとって、国難あれば国家のために銃を取ることは当然であった。伊藤博文でさえ、最後は銃を持って戦場に出ると語っている。

 

そういう人たちにとって、日本という国家のために自ら死地に向かうことは、全員の合意ではないとしても、コンセンサスのある考えであったと考える。

 

公に対して警戒感を抱くようになったのは、当然ながら敗戦の結果である。政治を信用してはならない、信用してしまえば、敗戦に至るまで、誰も責任を取らない。それを我々は自覚したからであろう。

 

最後のひとりまで戦うと言っていたじゃないか、と本気になった人が間抜けだったのである。誰もが手のひらを返そうとした時に、そう言われて呆然とした人もいたであろう。昨日までの言葉を簡単に撤回するような人々によってこの国は戦争に突き進んだのだ。黒塗りにされた教科書を呼んだ人は否応なく、そう知らされた。

 

政府の中枢に聖戦を叫びテロリストに転身した人などいない。戦争が終わった途端、自殺も含め保身に走った連中のなんと多いことか。

 

ならば、現在の主流になっている「自己責任」という言葉も、ここに端を発すると考えるのが妥当である。誰も野暮だから言い返さなかったが、どれだけ痛い目にあっても、子供のすべてを失ったとしても、それは自己責任として受け入れるしかなかったのである。

 

自己責任とは自分で責任を取るという意味ではない。政府は誰も責任と取らない。取らないのが明白だ。だから、何が起きても自分で勝手にやりくりするしかない、という意味になる。助けを求めるな、肝心な所で彼らは立ち止まるぞ、という世界観であろう。

 

だから自己責任とは信じたお前が間抜けなのだ、という意味しか持たない。そこに込められた感情がどのようなものであれ。

 

教育勅語の中心にあるものは徳であった。当然ながら、国家が倒れた時にここに書かれた徳は残りはしなかったのである。少なくとも、政府と結びつくような徳というものは。

 

あの戦争で失われたものが国体であるが、国体の護持が唯一の終戦の条件であったにも係らず、民と国の関わりに、国体という思想は失われた。

 

では、何が今のこの国を纏めているのか。少なくとも、天皇による立憲君主制が失われたのは確かであるが、元来、天皇は民主主義よりも王制よりもずっと古くからあるものだ。まったく違う場所で生まれ、これまで残ってきたものであり、日本の歴史を貫くものである。僕たちの想像力が遠く聖徳太子の時代にまで遡れるのは天皇という存在が今も眼前にあるからだ。

 

何かがこの国を貫いている。その中心に天皇家があるのかは知らない、国というものは天皇が作ったのではない。人間の中には国を作る何らかの働きがあり、この国の歴史の中では天皇が何らかの働きの中心にあった。アメリカの憲法と似たようなものであろうか。

 

未だに権威と権力が国家に欠かせないとしても、帝国はこのふたつを合一にしようと試みた。それは無理体であったことは間違いない。権威と権力は常に分離しているのが望ましいようなのである。それを知るために戦争に突き進んだと言ってもそう間違いあるまい。

 

だとすれば、それが権威と権力が合一の時代に書かれた教育勅語が、今も通用するという考えは間違いであろう。これは歴史の中でとても価値のあるものだ。だが、当時のエミー銃を自衛隊の正式な兵装にするといえば呆れられる。

 

では、今もこれを望む人たちが存在するのか。彼らが重んじる「徳」を教育勅語の中に見つかる理由は何か。道徳を科目として教育課程の中に入れたのは何故か。徳を重視して江戸しぐさみたいなものを愛好するのか。

 

そこには、失われた何かがあり、それを埋めるために「徳」が丁度よかったのではないか。彼らの考える「徳」と、今の世代の「徳」は違うと思われているのだろう。「徳」の働きはずっと昔からどの時代にも、どの地域にもある人間の普遍的な性質だ。それは教育勅語にも書いてある。

 

国家という価値観の上にしか自らのアイデンティティを保てない人がいる。それが権威の喪失とリンクした現象と考えて間違いはあるまい。欲しているのは権威だ。その接着剤として「徳」が必要と考えているのだ。逆に言えば、権威というものがそういった曖昧の心の働き以外では保てないものであることを彼らもまた知っているのである。