渋谷殴打事件 容疑の男を逮捕

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防犯カメラの威力というのは、犯罪の抑止力として極めて強い。それは設置数の多さのみならず、画像解析の能力(ハコヅメによれば未だに人眼が主力のようだが)がAIの導入によって向上したからであるのは間違いない。

 

G7などの重要会議では既に実績のあるシステムである。顔認識だけでなく、歩き方の個性さえ見つける。すると顔を隠してもダメなのだ。カメラの画素数が増えて、SNSに載せた写真から銀行口座をハックする(写真の光彩を取り出して)も可能である。

 

今後も犯罪抑止の観点から監視カメラとAI網の導入は必須であろう。犯罪の抑止のみならず、それが冤罪を減少させる役割も担うはずである。その結果が司法にどのようにフィードバックされるか、犯罪捜査がどのように変わってゆくかは想像の域を出ないが、すべての人にチップを埋め込むのは非現実的な話ではない。それが世界的に行き渡ったらどんな世界が到来するか。

 

特定の人間にプライバシーは公開できないとしても、人間の能力を遥かに超えるAIなら信用してもいい。そんな時代が来ると思うのである。サウジアラビアの事件を見るにつけ密室での人間ほど恐ろしいものはないと思う次第である。

 

という話はどうでもよくて、このような凶悪犯罪への態度である。基本的にこういう人は死刑で構わないと考えている。死刑が非人道的というなら、医学への貢献でもよい。様々な治験に参加することで人類の未来に貢献するのが良いと考える。

 

しかし、これは直ぐには実現しない話なので、もう少し現実的に考えると、このような犯罪者には再犯がつきものである。ドラマではないが、何回も罪を重ねる人もいるし、一度で辞める人もいる。中には望まないにも関わらわず再び手を染めてしまう人もいる。

 

そういう人に対して司法は無力である。開き直ってそれは司法の役割ではないとさえ言う。刑罰はその都度に決まるが、再犯になれば重い罪を課す。それは当然としても、重篤な傷害事件でもたかが10年程度で出てくる人もいる。

 

ロシアでは単独の傷害よりも、複数人による傷害の方が刑が重いそうで、これは非常に理解できる。とはいえ、その人が次もまた罪を犯すかは再犯してみるまで分からない。罪を償い社会に大きく貢献した人の数も枚挙に暇がないのである。再犯したり、さらに凶悪になる人の数も同様である。

 

もし一度の罪できちんと殺処分しておけば、その後に起きるべき犯罪はすべて防止できたという事である。それによって被害者にならずに済んだ人がいると考えれば、そういう対処をしなかった司法には再犯に対して罪が課せられるべきであり、再犯に対する共謀者と言っても過言ではない。

 

だが、そのような考えで一回の罰ですべてを決定するのは人間の立ち直るという希望を失墜させる考え方だ。人への信頼、希望を失っても社会が健全でいられるものだろうか。罪を犯してもまだ社会に受け入れるという信頼の強靭さなくて社会は保たれるものだろうか。崩壊した社会が急性アノミーではないが、どのような状態に陥るかはちょっと想像できない。

 

と同時に、将来についの罪までを含めて人を裁ける裁判官などいないわけである。冤罪ならば殺人に処す、そのような規定があって、誰が死刑判決を出せるだろうか。全員無罪にするに決まっている。

 

未来は分からない、という原則から言えば、どのような罪人も許されなければならないという結論が導かれる。ならば、その機会を奪う死刑は廃止すべきか?だが、許される事と死刑の間にどのような関係あるのだろうか。許されたからといって、刑務所で一生を過ごす人生もある。それは本当に未来は分からないという態度であろうか?

 

これらのすべてが、犯罪者を人として扱う立場によって成立している。これは注意すべき点で、もし彼/彼女らを熊と同じと見做せば、このような議論が起きる必要はない。それほどまでにこれらの犯罪は動物的だと思う。

 

これもまた人間のエゴイズムであろう。中国の法家らが聞いたら、お前らは馬鹿かとせせら笑うだろう。