トヨタ、新型カローラのセダンモデル「カローラ」「レビン」

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カニズムには改良が加えられているだろうし、コスト、性能、品質、電子制御、あらゆる面で、日本車を心配する必要はまだない。そりゃ、ヨーロッパの車と比べると座席はチープだし、エンジン音も詰まらないと言われることもあるけれど、汎用用途にこれだけ適した車はないだろう。

 

世界中の誰に聞いたって、無人島に一台だけ車を持って行けるなら何にするの答えは日本車に決まっている。中でもトヨタが圧倒するのではないか。そのような結果になっても驚きはしない。自分ならジムニーを選ぶが。

 

という側面と比べると、日本車のデザインはとても詰まらない。この車が4年前に発表されてても驚きはしないし、4年後に発表されても特に何も感じない。そういうデザインをトヨタは好む。

 

もちろん、免許取り立ての人から80を超えた人までをターゲットにする車種である。それがカローラというブランドだ。だから最大公約数的になるのは仕方がない。それを前提とした上で如何に個性的な味付けと控え目な雰囲気を出すか、ここに恐らくデザイナーの最も困難で面白い仕事があるんじゃなかろうかと思う。

 

個性的な車をデザインする方が、きっと簡単である。自分の信念さえ確かなら。自己表現としての満足感も得られるだろう。

 

誰もかもの意見を取り入れねばならず、妥協の上に妥協を重ねたような産物のどこに面白みを感じればいいのか。そのような仕事をするために俺はdesignという生き方を選んだんじゃない、そう言いたくなる事もあるだろう。

 

そういう仕事ではデザイナーは全ての調停者の役割を担うことになるだろう。調停者といえばARMSみたいでカッコいいが、実際の業務は丁稚奉公であろう。

 

そういう中では自然と誰も見向きもしない部分に興味が行くようになるだろう。デザイナーが個性を発揮できる場所はそういう所しない。どうでも構わないとされる曲線の中に、自分の全霊を投射する。それも誰も気付かない程度の味付けだ。

 

だが、最も優れた料理人は塩の0.01gの違いにも拘るという。神は細部に宿るとも聞く。するとカローラのどこかに誰も驚くようなデザインが隠れているんじゃないか。そんな想像してみたりする。

 

トヨタのデザインは車のイメージ、伝統を踏襲するという点は全く顧みないもので、モデルが変わる度にデザインはガラッと変わる。だけど、そのように見える例えばスープラなんかでも何となくシルエットの中に同じ血脈を感じたりする。

 

カローラは若手のデザイナーを育成するための登竜門的な役割でも与えられているんじゃないかと思うくらい、時間軸での統一感がない。どれも似たり寄ったりではあるが、代々伝わってきた形としての伝統というものは感じられない。

 

その一方で、時代の変化に敏感に反応するために過去からは自由でいられるほうが望ましい。そういう信念をトヨタはデザインに求めているのかも知れない。

 

だから過去を振り返ると確かにその時代の車であったな、と感慨深くなったりするものがある。それがトヨタの答えであろうか。時代の徒花であれば十分である。その幾つかが後世に残り、我々の中の種となればよい。死屍累々と打ち捨てられるようなdesignの墓標の向こうで。