『「イルカは特別な動物である」はどこまで本当か』を翻訳出版した編集者が語る「日本語と英語の情報格差」

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――不況に苦しむ日本の出版界をどう見ていますか。

伊藤:社会の底力の基盤となる知識や情報という意味では、本当に深刻なところまで来ていると感じています。私の目の届く範囲での発言になりますが、日本の出版事情から翻訳されない専門書や良書が増えているのではないでしょうか(特に理系)。

 総じて、英語と日本語で手に入る情報の格差がものすごい勢いで開いていると感じています。たとえば日本人がノーベル賞を受賞すると「日本では母国語で先端科学を学ぶことができる。これこそ日本の強みだ」などと言われたりしますが、それはもう過去の話になりつつあると言っていいのではないでしょうか。 

 

九夏社 

 

 英語と日本語の情報格差が開く一方という話には危機感を覚えるが、そういう話は昔からあった。WW2だって情報格差のあるまま突撃したような所がある。

 

戦争は特に技術を大きく変遷させる。だから、最初の格差がそのままであるはずもなく、更に開くか、逆に並走状態になるか、それとも追い抜かれるか、である。それが物理、化学、工学、社会、精神、文化、各分野で起きる。

 

社会の変革も迫られる。製造業であれ、科学であれ、人間の動員効率が優先される。その絶対的な要諦の前では差別など些細な問題である。他で好きにやれ。アメリカ軍は黒人を兵士として採用した。日系アメリカ人を拒否しない。軍人ほどのリアリストはいない、そう言われる国家は恐らく強い。

 

その変革は軍部さえも例外ではない。戦術、戦略だけの問題ではない。誰を司令官にするか、冷酷なまでのリアリズムが発揮される。競争に負けた?そういうことは戦争に勝った後で好きにやってくれ。

 

戦争は立ち止まることを許さない。常に変化する現実から目を逸らすわけにはいかない。何年前から準備しなければとても無理なことでさえ対応を迫られる。

 

だから幅広くなければならない。通信文に研究者の少ない難解な言語が選んだりもする。平時ならそんな滅びかけた言語の研究が何の役にたつのですか、いや、何の役にもたたないでしょう、と笑い話になるものさえ。軍隊は貪欲なのだ。

 

軍隊の特権はあらゆるものを総動員する。国家総動員と言ってるような国に勝利が転がり込んでくるはずがない。そんな心構えでは遅いのだ。少なくともアメリカはそうやってきた。だから使い物にならないもの、ジャンクの量は半端ではあるまい。それを支えるだけの予算も人的余裕もあったのである。

 

日本人だって戦争に突入する前にそういう事に気付いた人は何人もいた。だが資源も人材も余裕がない。このままではジリ貧です。今なら数割の勝ち目があります。今を逃せばそのチャンスも失われるでしょう、そんな話で戦争を始めたのである。

 

結果は、実際にその通りとなった。ジリ貧を恐れてドガ貧に陥る。もう五分の勝ち目もないと連合艦隊司令長官が言う有様である。

 

誰も計画も政略も持っていなかった。勝利に至るルートを仔細に水の漏れる隙もない程の構想力で計画した人は皆無であった。全員が全員の目の前の与えられた仕事には全力で注力したが、誰一人として具体的な全体の道筋を描いたものはいなかった。そういう部署さえも存在しなかった。明治の頃は元老がその役割を担っていた。そう思われる。

 

そういう意味で、窮鼠猫を噛むような戦争と例えるのは間違っていないだろう。間抜けでなければ行き当たりばったりの戦争と評価しても間違っていない。

 

いずれにしろ、情報格差が広がる危険性は昔から日本人はよく知っている。幕末に西洋文明に驚いた人はとても多いのである。だが、それを埋める方法はそう多くはない。より多くの情報を輸入するか、こちらが輸出できる立場に変わるかである。

 

明治以来、我われは追いつけ追い抜けでやってきた。一度も先頭に立つことを意識したことはない。バブル絶頂期にそうなりかけたが、夢は短かったな、おい。

 

ポルトガルであれ、ブリテンであれ、アメリカであれ、そういうつもりで世界の覇権を手にした国家はあるまい。彼らはただ野心と富を追及した結果である。いま、中国がそれを計画的に狙っている。

 

さて、輸入を増やした所で、本当に情報格差は狭まるだろうか、という疑問はある。全ての日本人が英語の読み書きができるようになれば、果たして格差は減るであろうか。そりゃ減るためのハードルは低くなるはずである。

 

だが、それは Take a horse to water の施策であって、 make their drink ではない。どれ程やった所で格差を最後に埋める最後に必要なのは「それを知りたいという欲望」しかない。であるならば、最後の決め手はゲール君、そういう問いが我々の中にあるかどうかという存在問題に極まる。

 

「そんな面白い課題があるのを知らなかったよ」この気持ち以外に解決する手段はない。

 

自国語で大学の授業が可能な国は少ないそうである。それはだが日本語が優れているのでも日本人が優れているのでもない。端的に言えば、我が国の四方に海があっただけでの話である。

 

その他の多くは自国語で大学を建設する前に、否応なく英語だのフランス語、スペイン、ポルトガル語を学んでしまった。それらの言語を覚えた後で大学を建てる、だからそうなったに過ぎない。日本は英語を習得する前に大学を建てた。

 

だから戦争中には敵性語を教えるのは辞めろという話が成立するのであって、だが海軍兵学校は最後まで英語講義を辞めなかった。それが戦後に役立ったという話である。戦っている敵の国の言葉も知らずどうやって勝つ気なのか。もちろん、内情を言えば、そんな話ではない。敵性語だからではなく、少しでも負担を軽くしたい、人材も足りない。そのための正当な理由があるものなら何でもいい。それが外国語であった。明日の種より今日の飯。そこまで貧した。

 

多くの人に英語だけを習得させるならそう難しい話ではないだろう。だが、それで英語が使えるだけの馬鹿を量産しても仕方がない。本が売れない理由には電子書籍の台頭もあろうが、一般教養を担う世代が変わりつつあるのではないかという杞憂もある。

 

そういう人たちが英語で直接読むから和訳なんて必要ないよと言っているのか、それともそういう層そのものが減少しているのか。もとから隙間を狙った書籍であろうから、そう多くが出版されるものでもあるまい。何部が売れたら採算が取れるのか、どれくらいの人によって支えられているのか。

 

こういう危惧が、日本だけに留まっているようでは視野が狭い。世界には全く違うことを考える人がいるのだと、それを国内に取り込む能力が低下している、そういう話だとすれば憂慮では足りまい。

 

その足りないものは何かで補うしかない。それ以外に手はない。それは何であろうか。知識の不足は勉強すればいい。その上で足りない部分は推測する。

 

AI が登場した。AI が因果関係と相関関係の考えを変えた。千や万の中から因果関係を求めることがこれまでの方法論であった。それが数千万、数億の中から AI が相関関係を見出すようになった。この時、人間の見つけた因果関係よりも AI が見出す相関関係の方が優れているという事が起き始めても不思議はない。因果関係とは数少ない事例の中から見出した相関関係に過ぎない。それが数億になっても成立するものを見つけたから優秀なのであって、力業でやる AI とは方法論が違う。よって結果も異なる。

 

事例が少ないからその背景にあるメカニズムで納得しなければ不安で仕方がない。だが AI が導く相関関係は圧倒的な事例の数が説得力を持つだろう。10の後にゼロが数百万も続けば、人間原理だって説得力を持つのだ。

 

人間では圧倒的に試す量が少ない。それを AI が凌駕する。今起きていることはそういう話だ。日本だけでは話にならない。だから広く海外にも問う必要がある。

 

だが AI の物理速度はこう結論づける、人間だけでは足りない。