停車させ「殺されたいのか」…東名あおり被告

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裁判員裁判であるが、この裁判の焦点は罰則にある。弁護士は危険運転は適用できない論法を採用しているが、銃のトリガーを引いたことは確かであるから、有罪であることは間違いない。狙いが逸れて後ろの通行人に当たったからといって、殺人罪ではないなどという事があり得ようか。

 

問題は刑罰の重さである。個人的には死刑妥当だと思うが、検察が危険運転致死傷罪で求刑しているため、最大でも20年、他の刑罰を加えて30年が限度である。

 

思うに、少なくとも10年以下はあり得ない。どれくらいあり得ないかといえば、そのような判決を出した裁判官を煽り運転で同様の目に合わせても無罪とされなければ話の辻褄が合わない程度にあり得ない。

 

日本の罰則は一般的には軽い。特に重犯罪になるほど軽くなる傾向が見られる。飲酒運転の罰金が40万で、もしこの犯罪者が無罪判決を受けたならば、判決はあくまで裁判官の良心にのみ基づくとはいえ、誰も司法を信頼しなくなる。

 

裁判官の判決が軽いとすれば、これはひとつに結果的に生じた被害に対して、人間ではそれはどうしようもない、という場合に、その罪を問うことは不可能であるという考え方が根底にある。

 

それを問われたら誰だって逃れようがないではないか、予測可能性、それに対する人間の制御性から逸脱しているケースでは、その罪を問うのを回避しようとする考え方が理解できないわけではない。

 

だが、それは飽くまで人間の善性に対して取るべき態度であり、人間としてこれは認められない、認める必要がない、という事件に対しまで適用すべきではない。

 

本事件は、典型的な被告人の人間性を考慮する必要がない事件である。どういう意味かといえば、動物として処分しても構わない事件である、という意味である。

 

その行動のどこにも人間性を認める必要がなく、また良心や善意の欠如について、そのまま理解すればよい。そういうものの存在が認められない以上、この被告は処分すべきであるし、もし当人が改心したのであれば、間違いなく私を殺してくれと言うであろう。いかなるケース、場合分けをしても、結論はひとつしかない。

 

我々の司法の最大の焦点は、その凶暴性を抑え込むことにある。ひとつの判例が、別のケースで利用されるかもしれない。それを極めて丁寧に慎重に見極めなければならない。そういう危惧は今の政権を見ていれば幾らでも転がっている。

 

それでも、この刑事事件は断固たる罰則をもって処罰すべきであるし、それ以外の結論は考えられない。もし、これを手放しで放置すればコンクリート事件と同様に司法が失墜するであろう。

 

正義を司法が失うことの罪は、法を破る事の何千倍も大きい。必要ならば、裁判官は己の全人生を掛けて判決しなければならない。これはそういう類の事件である。もし司法が崩壊しているのなら、拘置所で事故が起きても構わないくらいの、極めて例外的なケースである。

 

もし15年以下であるなら、これは司法取引でさえあり得ないケースである。どのような理由付けをしても正義の執行者として容認できない。ただ法に従順な飼い犬であるなら、だれが飼っておく必要があろうか。10年以下なら、裁判官はおあり運転を人々の権利として認めたと考えるしかない。

 

今回に限っては弁護士がどのような論調を張ろうが聞く必要はない。裁判員制度に参加した人たちはまず量刑から決めてゆくべきだ。自分なら死刑妥当という結論から遡って考えてゆく。それ以外の論理の展開は必要ないと考える。