妖怪人間ベム完全新作「BEM」放送決定

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この作品はほとんど見たことがないので、あまり語ることはないのだが、

早く人間になりたい!

という言動から、作品の奥底に差別や人権があるのは想像に容易い。そのうえで、「妖怪は人間であるか、否」を大前提として作話した。

 

同じ構造の作品には「テラへ」があろうし、アメリカドラマの「HEROES」や、アベンジャーズ「シビル・ウォー」などもある。人間とは異なる(多くは超えた)存在に対し、人間が恐怖する代表作は「デビルマン」だと思うが、ベムが画期的なのは、個人レベルでの「人間になりたい」にある。集団や種としての要望ではない。

 

困った事に、個人レベルで「人間になりたい」と感じている人は、今の日本にもたくさんいる。貧困で暮らす人、DVに耐えている人、海外から働きに来た人、日本人にも下劣な連中は幾らでもいる。別に妖怪である必要もないというのがミソである。

 

この日本で、今さら妖怪にそんなセリフを言わて、さてどんな価値があるか、製作者たちがそこを直視していないなど考えられない。

 

1968年の作品が放送された当時は今よりもずっと貧しかった。そういう世相に対して、子供たちは確かに妖怪よりはましだな、と健全な感性で対処した。だから笑っていられたのである。残酷にも冷酷に社会をそう切り取りながら遊んでいた。

 

それと比べると、今の時代は難しい。ポリティカルコレクトネスのみならずホワイトフェイス、ブラックフェイスさえ笑い飛ばせない社会的要請がある。人間とは何だという定義さえ社会的に許容できる範囲のものは実は難しい。

 

日本でもヘイトスピーチが真っ盛りとなり、二重国籍が政治的問題になり、アメリカの移民は不法、合法を問わす混乱している。国籍を持てないロヒンギャに対する迫害、ウイグル自治区の収容所問題、日本の入国者収容所での不当な扱いなど、世界には人間扱いされていない人間は幾らでもいる。

 

近代国家における基本的人権は、人間に生来のものとして定義されている。故にそれは例え侵害されたとしてもなくなるようなものではない。その違反は常に成立するものだが。だから、それは何かによって守られる必要がある。権利を持っていても違反状態は常に起きうるから、なんとかしないといけない。これが現在の基本コンセプトである。

 

だから、その多くは国家に帰属する問題となり、国家によって守られることが現実解とされるのだが、国家があれば必ず守られるものでもない。これらを国家が侵害する。それは世界中で日常茶飯事である。

 

そもそも妖怪が人間になるならまずは戸籍が必要である。税金も払う必要がある。住民票のためには住居もいる。家は借りたいが、ベムベラベロにはおそらく保証人がいない。

 

そういう人が借りられる家屋もあるしNGOなどの支援も受けられるだろう。人間になったら彼らも法律も守る必要がある。妖怪である頃は日本国憲法によって保護される対象ではなかったはずである。シンゴジラではないが、一般的な妖怪なら恐らく鳥獣保護法の対象であろう。人間に捕まったら間違いなく一体は解剖行きである。

 

もしいまネアンデルタール人フローレス原人がいたらどうなっていたであろう。恐らく同種の人としては扱われない。基本的人権は持たない。ほぼ間違いなく動物園で飼育される。ネアンデルタール人が少し微妙なのは知能が高いからであるが、それでも奴隷化されただろうと予想する。

 

では、人間は「知能」で決めるものか?これは可なり真っ黒な議論となる。寝たきりの障碍者を殺して回った人は、恐らくそう短絡に結論したに違いない。

 

先進国の学歴社会は、緩やかではあるが、基本的に知能レベルと社会階層を一致させる運動である。低学歴は社会的には不利な状況に置かれる。そういう国家は次第に停滞すると思われる。それは中国の科挙の歴史により確かだと思われる。だが、どの国家もそれ以外の選抜方式は見つけられずにいる。

 

人類の成功体験は歴史上、幾つもあるが、直近は産業革命のはずだ。その最終的な結実は、WW2 後のアメリカと思われる。現在社会は、その時代に提案された様々な理想、権利、理念に基づく。

 

そして、どうやら今後はそれではダメらしいという曲がり角にいる。現在は端境期として、経済が著しく突出した価値観となった社会である。どんな理念も経済的に貧弱であるなら採用する価値がない、この考えを支えているのが、蓄財による社会的なアドバンテージと、これを企業、一族、家族が相続するというルールに基づく。

 

すべてこのルールに基づいて、自分の行動を決定する。当然だが、このルールに異を唱えても無駄である。これは河の流れ、潮の流れなのだから、逆らったり変えようするのを無駄とは言わないが、多くの人の流れとは異なったものになるだろう。

 

ベムベラベロはフランケンシュタインの系譜にある作品である。そこに妖怪の「個」と人間という「社会」の関係性を明瞭に持った作品と思われる。

 

人造人間は様々な作品に登場する。アンドロイド、機械人間、ロボット、DNAの改変など、流派も多い。それでも、どの作品も最終的には人間とは何かというものに通じてゆく。だからではないが、多くの作品は人造人間の姿は人間によく似ている。

 

姿形が人間なら人間と呼べるのか?多くの作品はこれを否定する。ハカイダーの悲哀もそこにあったわけだ。

 

当然だが、姿かたちの違いで決めてゆけば、皮膚の色で人間かどうかを決めるのもその一種だし、DNAで見分けれれば良いと言い出す人も出現するだろう。人間から進化した種のDNAは人間とは異なるはずであるが、それをどう考えるつもりかは知らない。


姿形で決められないと主張する人は、今度は文化や民族で人間かどうかを決める道を歩かなければならない。ナチスの収容所へと続く道だ。その反省をすれば、最終的にイルカやクジラも人間ではないのか、という議論が避けて通れない所へ辿り着く。そもそも基本的人権は人間だけの権利なのか?

 

そういう話が簡単に見通せる現在にあって、なぜいま妖怪なのか。ベムベラベロである必要性は何か。本作からの回答が待ちきれない。