ダウンロード違法化、先送り論も「自民の良識示すべき」

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このニュースでよく分からないのが、文化庁がここまで強硬でいられる背景にいる人物である。印章でさえ業界の訴えに対して配慮を見せた政治であるから、特定の利益団体、特に古い既得権益に対して厚い配慮を見せるのも自然だ。

 

そうかと思えば、労働市場を簡単に破壊してしまって格差拡大への道を開いた。そのため日本の内需は停滞を始めた。人口減少を見越して、そこから利益を得ようとする勢力が社会改革と称して自分たちのための仕組みづくりを実行した。

 

小泉純一郎を間抜けと呼ぶこれが理由である。いずれにしろ、社会は落ち着くべきところに落ち着く、これが日本の基本戦略であって、そこには子供じみたまでの社会の強靭性、何をしても壊れるはずがないと言う信仰がある。

 

著作権に関しては一足早く、音楽がJASRACによって衰退した。それまでのCDという物を売るビジネスモデルからインターネットの登場で売るものが変わってしまった。デジタルデータが回線を流れるようになって、「物」は必要なくなった。

 

データは幾らでも溢れている。この新しい状況はデジタルに伴う当然の帰結であり、それが嫌ならレコードにこだわっていれば良かったのである。

 

コピーの氾濫に対して、旧世界が取る戦略は取締の強化しかなかった。これを強化すればするほど、あらゆる場所から音楽が消えた。そして人々は誰も困らなかった。音楽はスマートフォンを通してイヤホンで聞くか、ライブに行くものに変わったからである。

 

何れにしろデジタルという無形のものを、どのようにして著作権管理し、また創作の発展を促すかというのは袋小路に入り込んでいる。誰も新しい方法への上手い対応を、その思想のバックボーンとなるべきものを見いだせないでいる。

 

昔からあらゆる創作活動の基本は剽窃だった。リスペクト、オマージュ、インスパイア、なんと呼ぼうが同じである。真似ることから始まらないオリジナリティなど存在しない。ヒトがサルから人間になった時でさえ、我々はサルを真似ていたはずなのだ。他人のクリエイティビティは溢れる程いい。それを浴びるほど受けて初めて発芽できる。

 

だが、これは著作権に関するニュースではあるまい。厳密に考えれば考えるほど、デジタルデータとインターネットという新しいインフラへの対応の途中で、誰の利益を最大にするのが望ましいかという政治的な議論である。

 

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文化庁の背後には甘利明がいるという。それを安倍晋三が抑え込んだという。こういう話が出てくるのが不思議だ。この二人は盟友であるという。それがなぜ対立軸の反対側にいるのか。そこがどうしても解せない。

 

もし甘利が安倍と対立しているなら、対立軸になれるはずがない。そんな後ろ盾を文化庁が担いだとしたら、余程の間抜けである。文化庁が間抜けでも特に驚くには値しないが、更に上まで間抜け揃いらしいではないか。

 

もし二人が対立していないとしたら、なぜ文化庁はここまで強硬なのか。ふたりの政治家の間で適当な場所で手を打てばいいだけではないか。甘利の後ろにはカドカワドワンゴがいるという話もある。この法律によってどのような独占を狙っているのか。それが、本当に健全な市場を生み出すのか。それは知らない。

 

安倍が鶴の一声で止めたという。噂やデマゴーグ、フェイクが絡み合っているのか。どうも重要なパーツが欠けている気がする。どういう争いが、利権が、政治が絡んでいるのか。混乱すれば、味方と敵の区別だって確かではなくなる。

 

別に安倍晋三を誰かの傀儡だなどとは思わないが、彼を支えるバックボーンにそれなりの人材が揃っていることは確かだろう。彼のスタッフが助言をしたのか、だから動いたのか。だが、それは何のために?どういう利益関係が働いて?

 

さて、この問題は著作権の健全なありかたに一石を投じるために起きた問題ではないことは確かだと思う。そこがこの問題の恐ろしい点である。