「Googleマップが劣化した」不満の声が相次ぐ ゼンリンとの契約解除で日本地図データを自社製に変更か

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Google が自社製の地図に切り替えたら、当初はサービスの質が落ちることは当然織り込み済みであって、それでも彼らはそちらに舵を切った。そこからの立て直しにも目途が立ったからだろう。

 

計画によれば何か月で、何年後に品質を回復できるかは知らない。だが、航空写真,ストリートビュー,AIなどを組み合わせれば確かに可能な気もする。それを実現するためには新しいチャレンジが必要で、そのためにはゼンリンの地図が邪魔だった。そういう可能性さえある。

 

こうしてみると、ゼンリンという専門性とグーグルという総合性の対決にも見えるし、専門性がAIによって駆逐される最初の一例なのかも知れない。

 

一方でゼンリンの専門性は別の軸にして専門性が前面に出るが、グーグルは大衆性という側面も持つ。地図を世界的に再認識させた功績は GMap にある。世界を変えたひとつである。

 

まず経路探索というサービスでカーナビを駆逐した。次に地図というバックグランドでゼンリンを駆逐しようとしている。インターネットを通じて全世界に機能を提供するインフラを有し、それをブラウザ(スマートフォン)という小さなデバイス上に提供するアプリケーションを有す。

 

それはPCというインフラにアプリケーションを提供してきた Microsoft のビジネスモデルを過去のものにした。AppleAmazon でさえグーグルの総合性と比較すれば The Part Of Them に過ぎない。

 

通常、総合性、大衆性は専門性では劣るとしたものだ。広く浅くか、狭く深くの二択があって、広く深くはとても人間のそれではない。狭く浅くはここでの議論の範囲外とする。

 

しかしいずれも相対的な評価であるから、ある人にとっての浅くも、別の人から見れば深かったりする。ニュートンが巨人の肩と語ったのと同じである。

 

一般的に考えれば地図はグーグルよりもゼンリンのほうが優れているはずなのである。だが、それは過去の評価かもしれない。AIを使えば素人でもプロに勝利できる。つまり人間+AIは広く深くを可能とするかもしれない。

 

しかし、この場合の深さも広さもまた相対的であって、かつ、その限界深度は、人間がこれまで到達しえた場所からそう遠くないはずである。AIが導き出した真実であったとしても人間が理解できない真実ではどうしようもない。

 

もしAIが人間の介入を排除し自律的に結論を出すことが可能だとすれば話は別である。そこに人間の理解を必要としない。その根拠も同意も不要だとすれば、どのような振る舞いをするだろうか。それは人間が初めて人間とは異なる知性と出会う最初の機会かもしれない。それが異星人である必要はなかったという話だ。

 

グーグルを支えるのはサービスの質の高さでは必ずしもない。アクセシビリティが最初にある。次にユーザビリティがある。いつでも手に入り、使いやすいこと。IEChrome に敗北した理由は起動速度にあった。セキュリティではない。

 

この部分はAIがあろうがなかろうが、関係ないように見える。多くのデータをAIで解析したら使いやすいソフトが出来るであろう。恐らく。人間が最も深く考え抜いたものよりも、優れた製品が生まれても驚きはすまい。

 

それでもそれを使いやすいと感じるのは人間の側の神経上にあって、そこだけが我々の社会や市場を支えている。巨大な市場なくして大企業が生き残る道はない。貧しい国で独裁者一族だけが裕福であるというビジネスモデルは恐らく彼らに有益ではない。

 

ただその一点だけが、AIや巨大企業に世界が支配されないであろう、という根拠である。この小さな鞘の中を流れる貧弱な電気信号の上にすべてがある。僕にはそこを超える世界観は構築できない。その先の展望は読めない。