旅行客も対象か 不倫と同性愛行為の投石死刑 ブルネイ

www.asahi.com

 

東南アジアのイスラム教国ブルネイで、不倫と同性愛行為に投石による死刑を科す刑法が施行される。 窃盗罪には手足を切断する罰則も導入される。イスラム教徒ではない外国人旅行客であっても盗みを犯せば初犯は右手、2度目は左足を切断する罰則が科される。同性間や婚外の性行為は、イスラム教徒が相手であれば、非イスラム教徒も投石による死刑などの罰則の対象になる。

 

神の言葉とそれを聞いた人間との間に、完全な一致がなくとも自然である。人間は神と比べると不完全な存在だからだ。もし神の言葉を完全に理解したという者があれば、それは自らを神と語ったに等しく、神が完全で唯一でするなら、ありえない。

 

よって神の名を語った嘘つきに過ぎないはずである。そのようなものは神と敵対する存在と呼んでもよく、神を利用し自らの利益を追い求めるものとして罰するは正しい行いと思える。

 

一方で神は完全であるから、人間に誤解を与えたままでも別に問題はない。完全に人間に理解させることも、人間に理解させないことも神の自由である。神の自由意志に対して人間はただの一言もそれを曲げたり強要することはできない。

 

ただ神が行動を変えたとしてもそれは決して人間の願いを聞いてくれたからではない。神の自由意志を人間が捻じ曲げられるはずがない。たまたま一致したとみなすべきであろう。

 

では人間とは神の奴隷であるのか。それについては有名な所はヨブ記が教える通りである。信仰とは何であるかを考えるのは人間に可能な自由のひとつである。それについて神の思惑を悟ったという者は、神の自由意志について何も理解していない。

 

科学的知見の発展が、聖書などに記載されていることについて、訂正を求める場合がある。それは神が間違えたのか、当時の人間が勝手に読み違えたのか、どちらとも言えないが、神が訂正せねばならぬ理由はない。訂正しようがしまいが、神の自由意志であり、それを人間が変えられると考えるのは間違っている。まして非難できる話でもない。

 

これはダメ、あれもダメと禁止してきた事について、多くの宗教で疑問を呈されている。現在の価値観と比べると明らかにそれは受け入れられないものも増えてきた。

 

世界的に残ってきた宗教は、それでも人間が受け入れやすいものが多い。おいしいお肉を禁止する程度のものであるから。既に失われた教義の中には、到底許容できぬものもあっただろうと思われる。

 

それでもなるべく教義に沿ってそれを実践しようとする人が登場することは否定できない。その言葉は本当に神の言葉か、それとも人間の理解した言葉か、という疑問もないではないが、権力者がそうと信じているなら、どうしようもない事も多い。

 

少なくとも自分を神である、または代理であるなどと口走らなければ如何ともしがたいはずなのである。そういえば、中東にそう語った預言者が登場したこともあった。さて、その人が本当に神の代理人であり、神と三位一体となっているなら、その者は神として言葉を発するだろう。それもまた神の自由意志である。

 

では人間には神とそうでない者を見分けることは本質的にできないのではないか。たしかにそのはずである。ヨブを苦しめたのは決して神ではない。悪魔である。神はただ悪魔を止めなかっただけだ。

 

ISの理念にさえ惹かれて身を投じた人々がいる。彼/彼女らはいま、もとの国家からさえ入国を拒否されている。ヨーロッパでさえそれが問題となる。なぜそんな選択をしたのか、と到底理解できないのであるが、その地で生まれた子供をまさか放置するわけにもいかない。

 

世界には、様々な宗教が共存しており、幸いにも強固に他の宗教を滅亡させようとする勢力は多くない。だが、彼らのコミュニティに入った場合には、異教徒もまた同列に裁くという考え方も Romans In Roma と言われたら仕方がない気もする。

 

だが、重すぎる刑罰は必ずブルネイへの批判となる。天然資源の豊富な国だから経済的に困ることはないだろうが、世界的に批判されて国際的な立場が弱まれば、南沙諸島ASEANでの発言権が弱まることは想像に難くない。

 

その時。日本は、中国は、アメリカは、ISの残党たちは、その天然資源を狙って大蛇のようにとぐろをほどくだろう。