ガンプラと歩んだ40年、ガンダムの生みの親・富野由悠季が語る「“おもちゃ屋スポンサーは敵”という被害妄想」

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――当時、タミヤに負けていた部分というのは?

富野由悠季】根本的な問題として金型の問題も承知していました。また、ガンプラがヒットし、模型業界で成功を収めたバンダイがダラしなくなってきているとも感じていました。こんなことを続けていたら飽きられるぞと。一般論的に言わせてもらいますが、機械的構造の再現をどう縮小して再現するのか、という造形を目指してくれなければ困るとお願いしました。

 

富野由悠季】当初、ガンプラは可動部分の問題が多かったのですが、それでもシルエットはかなり向上しました。当時のMSVを全肯定はしませんが、「まあ許せる」というレベルにはなったと思います。人型兵器として“らしく”なったねと。それでも、宇宙ものの兵器として、「あなた達が絶対に誤解していることがあるんだけど」と伝えていたことがあります。そして、それはいまだに改善されていません。

――それはなんでしょうか?

富野由悠季】MSのランドセルが小さすぎます。あれでは、宇宙空間で一週間とか10日間、パイロットが支援無しで生き延びなければならなくなった時、MS単体で活動を続けるのは難しいでしょう。 

 

ガンダムのプラモデルも最初は完成度が低かった。プロポーションが悪すぎて、とてもコレクションする気になれなかった。だけども、プロポーションの悪さではヤマトも同様で、だから、メカコレクションシリーズのようなサイズの方が余程に優れていた。

 

小さいほうがまとめ易いというのがあるのだろう。相似にすればいいというものではない。しかも、接合、格納、変形、移動、などのギミックがあるので作るのは大変なはずである。特にアニメの基本はゲッターロボの変形であって、数学で言えば、トポロジーであれば、何も困らないというような所がある。

 

アニメーションならば伸ばすのも、曲げるのも自由自在であるものを、現実世界に投射するのは難しい。幾何学を超えられないからである。だから、当然だが取れないポーズが出てくる。それをどこまで許容し、どこまで実現するか、そのためのネックは何か、プラモデルの金型を作った人たちは、どのようなポーズで遊べば満足するかの検討を重ねたはずである。ガンタンクの担当者でさえ悩んだと考えるのである。

 

だが、このプラモデルが、それ以前と以後に与えたインパクトは大きくて、これは実在するメカニックである、という実体あるリアリティを伴ったのは確かだ。その後に続いた車の延長線上であるザブングル王蟲の殻で作ったらこうなるに違いないダンバイン、このふたつがロボットものの変革を方向として決定づけた。

 

ダグラムが軍用機としてより先鋭化した。砲塔を搭載し、コブラのようなコックピットを提示する。ボトムズがひとつの頂点となった。高橋良輔はこの2作品で長く名を残す人となった。

 

おもちゃ的な頂点はボトムズマクロスだと思う。それでも、驚くべきことであるが、本流は今もガンダムなのだろう。何が違うのか。この分析が深ければ論文で博士号が取れると思う。

 

数ある作品の中でミリタリーとしてのリアリティに優れたのがガンダムであったのは、一点ものは手に入らないけど量産品ならば俺たちだって入手できる、というリアリティがあったのだと思われる。そういう意味では争った本当の対抗先は車だったと思う。

 

そういう意味でガンダムを支えたのは資本主義、自由経済、そして大量生産という現実である。モビルスーツの先に工業(第二次産業)があった。これを支えた背景は20世紀の製造業である。決して19世紀には起きない現象だったはずである。

 

それ以外のロボットのほとんどは、一点ものであった。異星人が作ろうが、どこかの遺産で産出しようが、トライダーだろうが、ダイオージャーであろうが、どれも大量生産品ではない。もっといえば工業品ではない。どれも職人の手による工芸品であった。

 

ガンダムだけが物語の背景に、企業や工場が想定されていた。軍からの発注があり、それに応じてエンジニアの奮闘があり、ラインに乗せて生産し、数々の部品を仕入れて組み立てる。納入した後は、各現場で整備され、実戦に投入される。使えば、どこかが壊れるし、ミサイルも銃弾も補給しなければならない。欠陥があれば、改良が加えられる。技術が古くなるから新型機は定期的に投入する。

 

そういう社会が物語の中に厳密に存在した。だからこの作品を決定づけたのは、実はアムロではなく、アムロの父親たちなのである。社会の最先端に働いている人々が世界を支えた。それが多くの人々が自分だけではなく、自分の未来を作品の中で見つることができた理由だろう。ガンダムはただその先端の一部を切り取って見せただけとも言える。

 

その一部からでも当時の子供たちは青年たちは大人たちまでもが、その背景に広がる社会に触れたし、それはソビエト連邦ぽいものも、アメリカぽいものも、日本的なものも、ヨーロッパ的なももの、南米の原住民たちさえも存在していた。

 

社会と組織があって、その中に自分が存在する。そこに生活がある。そういう物語だった。当時の子供たちにとってスーパーカーという最高級のものに熱狂した後に、でもどうせ手に入らない、という挫折を埋めてくれる、量産品という魅力、自分たちが手に入れることができる最高の夢、同じ夢ならカローラよりもザクを選ぶに決まっている。

 

それはドイツの戦車という現実よりも、ずっとリアリティを持って生活の中に入り込んできた。パンターがどれだけ強くたって、ザクの前ではいちころだ。

 

そういう中で富野という人の、「ランドセルが小さすぎ」という視点は素敵だ。頭の中で、現実にザクを設計し、それを使用し、さて困ったことが起きたぞ、故障して動けない、破壊されて動けない。どうやって基地に戻ればいいのだ。

 

そもそもこの世界でのレスキューはどのように構築されているのか。救命を待っている人々は宇宙だ。

 

機体にはどのように救命装置を搭載するのか。色々な視点があるはずだが、ここまで考えなければあの世界観は生み出せなかった。そして、アメリカの飛行機には十分な防弾装置があったという話とも無縁ではなかったろう。そういう軍隊でなければ最終的に勝てるはずがない。それは倫理の問題ではない。

 

それを裏付ける技術力の差だ。どれだけゼロ戦が好きな人だって、実際に乗って戦場に出ろと言われたら、F6Fを選ぶに決まっている。

 

こういう背景の背景が頭の中にあるに違いない。作品に出てくるエピソードは、その一部に過ぎない。だれにも語っていない「実は」はまだある(忘れられている)。

 

モビルスーツのプラモデルが売れる現象で、敵とすべきがタミヤのミリタリーシリーズであるのは、コナンを仮想敵としたのと似ている。クリエーターとして敵を必要とする人なのだろう。

 

そして、そういう人間関係の中に自分の独自の視点を鍛えてきた自負があるのだと思われる。決して、自分は負けていない、という矜持と、だが実際の社会的評価は、とても低い、もっといえば、卑近である、そういう悲しさがある。

 

もし、これまでの作品を生み出すのにそういう劣等感を必要としたのなら、その低俗な環境に感謝しなければならない。大和の菊水作戦など愚の骨頂であるが、あれがあったからヤマトが生まれた。無益に死んでいった人たちがいるし、死んだ人には何の慰みにもなりはすまいが、少なくとも戦争が残した最も意味のある”命”であった、ギレンならそう演説するだろう。

 

僕もそう思う。