日本映画に革命を『キングダム』プロデューサーの大望

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暴動かね?いいえ、陛下、これは革命にございます(It is a revolt, isn't it? No, majesty, it is a revolution.)。で有名なルイ16世であるが、リアンクール公爵の卓見がゆえである。

普通に考えれば革命と改革の違いを説明するのは簡単だ。革命は体制がひっくりかえる。改革は体制を維持する。

 

ゆえに享保の改革であって、明治維新は明治革命のはずである。なぜあれを維新と呼ぶか?おそらく革命という言葉はまだ翻訳されていなかったからだろう。西周をはじめとする西洋の思想を和訳した人たちが revolution に革命という新意を割り当てた。従来からある意味を拡張した。

 

歴史を辿れば大化の改新乙巳の変)も一種の革命であるはずだが、日本には天皇があり、その家臣の争いが延々と続いてきた。たとえ建前であろうが、歴史上の権力闘争は革命ではない。政権交代は常に枠内で起きた。

 

権力の所有者は変わり続けたが、あれは貸与であって譲渡ではない。ましてや強奪でもない。日本人にすればGHQでさえ天皇の代理による為政者であった。

 

我が国では平成天皇を見るだけで、遠い過去までひとっ飛びできる。持統天皇の歌を思うとき、聖徳太子推古天皇を思うとき、実質的な始祖と思われる雄略天皇だろうが、皇祖とされる神武天皇だろうが(それ以前の神様はここでは取り上げない)、ざっくり言えば、今上天皇のおじいさんかおばあさんである。この連綿たる流れ。この国の政治は常に貸与として働いてきた。

 

おかしくなれば返せばよい、優れた人がいればその人が立てばよい。統治とその時代の思想に自由に対応すればよい。権力が時代とともに色んな受け継がれて方をしてきたというだけでなく(その程度の歴史なら世界中に幾らでもある)、ずっと貸与という形で続いてきた。これは珍しいのだと思う。ここに独自の政治観が生まれなければ嘘だろう。この国の人は誰もが生まれてからずっとその考えに親しんできている。

 

同様の国にイギリスがある。王、女王を存続させてきた国である。Brexit で一度はこけると思うが、キングダムのまとまりが失われることはないと思う。一方で、フランス、ロシア、ドイツなどは過去を断絶する歴史を選んだ。この違いがその後の政治に影響しないはずがない。

 

だから革命を口にする人がいるときは、その真意を聞きたいと強く思う。これは中二病が零下千度!とか口走るのとは違うのである。革命と改革は厳格に区別されるべきだ。

 

もちろん、これは改革というには足りないという場合もある。それは better, best と同じように最上級として使う「革命」がある。それまでのあらゆるものが古くなる、弩級戦艦によって、既存の軍艦が古くなったように。

 

一方で、レシプロ機からジェット機への遷移は革命とか改革とは呼ばれてない気がする。航空機にとって革命的な刷新だったお思うが、おそらく戦後のどさくさと冷戦が関係するのだろう。

 

ロケットの出現も革命とは呼ばれないようだ。技術的基盤が前世紀のツィオルコフスキーによって確立されていたとは言え、ブラウン、コロリョフらの苦労は基本的に政治的、工学的な部分にあった、としても、これも厚い軍事機密によって守られていたからだろうか。

 

規模が大きい、作りが丁寧である、その程度では革命ではない。まして、新しい技法が登場したくらいでは足りない。CGの登場でさえ映画の革命ではない。サイレントからトーキー、モノクロからカラー、これさえも革命ではない。CGはさりげなく、そして自然に入ってこようとした。CGと指摘された時点で製作者側の負けだったはずだ。

 

すると何が革命なのだろう。これまでの映画の作り方が全く変わった?もう昔には戻れない?生きていればそういう経験はする。今さら VC++6 で開発など無理だ。だが、果たしてそれを革命と呼ぶほどのものか。技術の進展、刷新、には違いない。なんでもかんでも進化と呼んで成長と区別をつけない人もいる。

 

邦画など、脚本の質を比べるまでもなく、アメリカの映画産業と比べたら、桁が 0 とか 00 は少ない。その状況を変えたい、同じくらいの金額をかけ、同じくらいの収益を得たい、世界を相手にした。そういう野心を抱く、山師のようでなければ映画産業になど飛び込まないだろう。

 

大言を吐く勇気、大勢の人を束ねて完成まで持ってゆく馬力。この人の活力でこの映画は完成した。その意気込みが革命を起こすぞ、と強く思わせた。「まんぷくラーメン」の見過ぎではあるまい。

 

即席めんもカップラーメンも革命と呼べるか、呼べる気はする。だが、人間が開拓してき食の世界は広い。即席ラーメンはそこに確固たる地位を築いたし、まったく新しい潮流を作った。それでも革命というよりは、まったくあたらしい河川が生まれた感じがする。

 

思うに革命と呼ぶ限り、何かは打倒されなければならない。そして変わったと宣言されなければならない。果たして、この人にとっても倒すべき相手は誰か。そしてどのような宣言が聞けるか。

 

革命は常に宣言を必要とする、たぶん、そこが改革との違いだ。