自分はイスラム教徒なのでオーストラリアの法律の適用は免れる

 

 近代国家の法体系では最高法規憲法があって、それに基づいて各種法令が制定されている。だから憲法違反をしていれば、どのようなものであれ無効である。

 

憲法制定では、当然ながら、それまでに獲得された人類、民族、市民の理念、理想が反映される。それは国家によって異なるとはいえ、基本的にはヨーロッパが開発した基本的人権を中心に置く。

 

憲法の上位概念、価値観は一般的には憲法に投射されている。よって憲法を語るときに、それについて考慮する必要はない。しかし、制定された憲法に含まれていない権利が新しく獲得された場合、憲法にフィードバックされるのが望ましい。

 

また記載された内容が現実の権利と合わない、または、著しく矛盾する、理想を損なう場合は憲法が訂正される必要がある。

 

この価値観の変遷は、注意深く行われる。一時の流行やパッションで変えるのは危険である。総じて民主主義は変化が遅い。それは憲法への理念反映の遅さによってもたらされている。これは、よく「話合う」が「時間をかける」と同じ意味だから何も矛盾していない。

 

この上位概念をイスラムに置き換えろ、と主張しているのが、イスラム教徒の一部の主張である。この主張は、我々には乱暴に聞こえる。基礎学力の不足ではないかと訝る。信仰の自由も認めなければ、一面的な価値観の強制をする。そこにはヨーロッパが獲得した人間の理想は無視されている。

 

所で、イスラムに対する解釈は誰が行うのか?

 

それが神の言葉と同一であると誰が裏書きするのか。神は間違いがないと仮定したとしても、人間が間違わないとは言えない。もし神は間違わないと主張するなら、それは神を制限したことになる。全能である神が間違えないのなら全能ではない。間違えてかつ正しいのが神であるはずだからだ。

 

もしあなたが神の代理であると言うなら、それは神に並び立つという意味だから神への冒涜であろう。もしあなたの個人的な考えであるなら、あたかも神のように語ったのだから、神への冒涜だろう。仮にあなたが本当に神であるなら、我々が信じる必要さえない。神は全能だからすべての人に信じさせることなど簡単だ。

 

もし、神が間違いであるなら罰するであろうと反論する人がいるかも知れない。それは神を召使いとして働かせているのと違わない。なぜ神は間違いは訂正しなければならないのだろうか。なぜ神に間違いをしてはならぬと要求するのか。正しかろうが間違おうがすべて神の自由である。

 

人間の理想としての神は、キリスト教徒だってずっとそう思ってやってきた。中世の頃は、キリスト教徒も同様に語っていた。神は理解してくださる。ガリレオがそれでも地球が回っているとうそぶくときも、神を疑いはしなかったろう。ずっと昔の道を同じように通っているだけではないか。

 

どうやってキリスト教は神と法を分離したのか。政教分離は教会と国王の対立の帰結であった。だから、法体系からは完全に宗教が放逐されたわけではない。だが宗教が分離されるのに、科学の誕生があったのは間違いないように思われる。

 

科学は、もともと神の御心を証明しようとする人間の合理性の中から生まれた。科学は次第に、観測される事実と神の言葉を伝えたとされる人間が書いた書物との間に、矛盾を見出す。宗教から産み落とされた科学は、宗教と袂を分かつ。一緒にいては、宗教を否定せざるえないから。あれは人間が伝えたものだから間違いもある。科学にこそ、神の本当の言葉が記載されている、聡明な人たちはそう考えた。

 

キリストは量子力学を知らなかっただろうか。知っていたとしても、それを当時の人々が聞いて正しく書き残せたかは疑問である。知らなかったとしても、それがキリストが神でない証拠ではない。神が完全に隠し通そうとしたなら人間にはそれを知る術はないはずだ。

 

500年ほど遅れてイスラム教の一部の人たちが宗教的論理を追及しようとしている。現在の社会とイスラムとの間にある矛盾、解離、そういうものを見過ごすことはできないと考えるとき、それは信仰の追及として当然生まれてくる。ならばその本質は、ヨーロッパが見出した基本的人権イスラムとの対峙であるか。

 

ユダヤ、キリスト、イスラムは同じ流れの宗教である。だが太古から争いを続け、それは今も変わらない。様々な人間の要因が争いを何度も再燃させる。これも新しい対立である、その本質は人間がもつ合理的精神の発露であろう。

 

我々の社会は、国家は、またはそれ以外のコミュニティは、複数の異なる矛盾する理念を抱きながらも統合することは可能であるか。

 

何ら驚く話ではない。天照大神天皇家の祖先と言い切ったのは21世紀のNHKである。我々も同じ場所にいる。