研究費をばら撒け、と言ってはいけない理由 - Kondo Labo, Osaka Univ.

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研究費をばら撒け、と言ってはいけない理由 

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Turing 波によって魚の縞模様(チューリング・パターン)は説明できる。この研究は数式で説明できるので、JavaScript でコードを書けば、パラメータを与えて様々な模様を描くお遊びツールだって作成できる。非常に面白い研究をされている研究室である。

 

財務省の圧縮財政、選択と集中という日本の撤退戦に公的機関である大学が影響を受けるのは仕方がない。研究者たちは、それこそノーベル賞受賞者たちまでが将来への危機感から見直しを要求するが、無い袖は振れないと財務省は説得されない。米百俵の精神でころっと騙された日本人だから、財務省だってそりゃ警戒を緩めはしないのである。

 

科学者たちの要望は至極シンプルで、日本は資源がない以上、科学的な優位性を持たない限り国家は先ゆかない。ゆえに科学教育(文化も含む)は重要であって、教育の基本戦略は裾野の拡大である。お隣の中国は日本の十分の一であっても、人的資源が10倍あるから、日本と匹敵する。日本の五分の一で日本の倍の成果が上げられる。単純計算だが、これは間違いない。

 

ワシントン海軍条約で日本が対米7割を要求したのは当時の海上戦力が保有数の二乗と見做したからだ。よって10:7は実質100:49である。これが譲れる最低ラインであった。数で劣る以上、単艦の能力向上で100:49をなんとか100:60くらいにしたい、だから日本艦艇には独自の機能美がある。ほぼ沈んだが。

 

科学には基礎部分と応用部分がある。囲碁に例えるなら実利と厚みである。投資に例えるならFXと長期国債である。短期的に設けるか、長期で運用するか。今もらうか、明日もらうか。飢えた人に魚を上げるのか、釣りを教えるか。

 

財務省は今すぐ食べないと死んじゃうのに、釣りもくそもあるか、と主張しているのに対して、科学者たちは、釣りを教えなければどうせ飢え死にするじゃないかと反論する。どちらも正しいから、問題は金額だけの話だ。ここに両者は異存ない。

 

金を出さないとは言ってない、少ししか出せないと言っているのだ、対して、金を出せと言っているのではない、使い方が制限されすぎて自由な研究が侵されているのが問題だと主張する。

 

自由裁量に任せたら誰が健全性を保証するのか、お前ら科学者は金計算も満足にできないじゃないか、申請書を見れば一発でばれてるんだぞ。当たり前じゃないか、金勘定で満足できるなら、こんな仕事に生涯を捧げるか、と両者の論争は終わらない。フィッシャーとピアソンの論争みたいなもんである。

 

このエッセイは科学者側からの反論である。主張するなら言葉のイメージが重要である。そこを間違えれば、内容を聞いてもらう前に負けてしまう。だから戦略を持とう、イメージ重要、つまり、これを「コピーのすすめ」と読み替えてよい。ジブリが成功したのだって宣伝上手なだけじゃないか、富野由悠季はそう愚痴ってるかも知れない。

 

「ばら撒き」「好きなこと」「役にたたない」では誤解される。誤解を解くより、使わない方が手っ取り早い。ならば、それに変わる言葉が必要だ。宣伝戦略は外交と同じだ。同じニュースがロシアとイギリスでは全く違う放送内容になる。どちらも主張を譲らない。どちらが説得力を持つか。

 

ばら撒きは「研究者の相互評価」、好きなことは「イノベーション」、役にたたないは「すそ野を広げる」と言い換える。言い方ひとつでカラスも白くなる。

 

だが「科学者の相互評価システム」と聞くと科学史のひとつふたつを読み聞きした者としては懸念を表明せざるえない。科学者が如何に敵対勢力に対して卑劣であるか、追い出し、締め出し、蹴り出しと、悪口のオンパレードとなるかを知っている。

 

あれだけの業績を上げた人が、みたいな話もバーゲンセールできるくらいにある。研究に純粋である分だけ、動物性が野生に近いまま放置されたのだろうか、まして老人ともなれば大脳皮質による抑制も効かなくなるのである。権威と加齢のセット販売もこれまた売るほどある。

 

人間というものは権力とお金が絡めば必ず豹変する。素人が運営すれば、贔屓とおべっか使いの巣窟になる。これはノーベル賞を受賞することとは何の関係もない。そうであるなら、財務省が管理しようとする話も無碍にはできないし、だからといって自由裁量を奪う事が科学の死ねと直結するのも明白である。

 

一括交付と予算配分の評価、妥当性をどうするのか。文科省にその能力がないことははっきりしている。既に財務省の丁稚であるから、この論争に財務省が乗り出してきているのである。寝返ったな、シャア、と言いたい所だが、最初からあっち側であってこっち側ではない。裏切った気などさらさらないはずである。

 

行政が大好きな第三者機関が、ほとんど機能しないのは原子力発電所事故で証明済みである(問題を起こさない優れた第三者機関を我々が知ることはないし、問題を起こす所はニュースになるのでよく知ることになる。そのため全ての第三者機関が役に立たないという結論になるのは、得られた情報の範囲では確かな事になる)し、だからといって科学界が健全とも言い難いのは、不正論文などごたごたで説得力がない。だけど、人が死ぬ必要はこれっぽちもなかった。

 

人間は強い圧力、特に成功という期待には弱い。そんな圧力に晒されれば、どこかで折れるのは当たり前である。そんな期待に応えようとするよりも地に落ち非難中傷される方が安堵する、これはイカロスのように飛んだ者にしか分からない。

 

妥当性の検証の上手い方法がないから、みんな頭を抱えている。

 

予算の妥当性の評価は研究毎に異なり、明日評価できる研究もあれば、4年後、40年後、400年後に評価できる研究もある。投資とは本質的に「未来を買う」事だから、本当に買ってよかったかどうかは未来に決定される。300年前の研究が今頃になって注目される可能性もあるし、人類が存続する限り、確定はあり得ない。

 

だからといって評価できないから評価しないままでよいという話にはならない。そういう状況で便利なのがベイズラプラス統計であるらしいと聞いたが、どう応用すればいいかは知らない。

 

予算は上下動する。今は財政で支えているが、国家予算の25%が国債の利払い費に充てられるなど割合が増えれば、日本の国家予算が国債に頼っている以上、国際の利払いは上がり、実質予算は縮小する。縮小する以上、どこかを減らすしかない。これは政治課題であるが、一般的な良識を有する人は、命に関わらない部分から削ってゆく。

 

大学は直接的には命と関わらない。魚を食べさせないといけない人がいる。釣り竿を買えだ?その辺の竹でも切ってろ、という話になる。この釣り竿を作ればみんなを救えるのにという話を聞いてくれる人は少ない。そうでなくとも「成果」で後付けの評価ばかりされる国である。先買いができる能力は希少なのだ。

 

金メダルを取るまでは、バイトしなければ生活できなかった人がいる国である。成果によって動き出す国である。しかも成果の判断まで海外も頼る事の多い国である。日本アカデミー賞なんざプラスチックのトロフィーだと思っているでしょう?米国のアカデミー賞は本物だ思っているでしょう?僕もそう思う。

 

研究者は世界を飛び回る。必要なら国籍を変えることにも躊躇しないだろう。もし宇宙人が地球にきたら勉強するために連れて行ってくれという人もいるだろう。遣唐使たちの情熱、吉田松陰の熱望。

 

そう考えれば科学には国家を成立させる側面と人類全体の資産という両面がある。もし国家という視点から見るならば科学は重要である。だが人類という視点からは、それ相応の貢献ができれば不満はない。どのような発見であれ、研究に貴賤なしである。どの国籍による研究かなど意味がない。

 

つまり、研究費に関する議論は、富国強兵の延長線上にある。明治期の日本は国民を働かせ、公害で苦しめ、身売りが出ようが富国に邁進した。それが遠因となり軍部のクーデターを誘発したと思うが、当時も貧しかったが今も貧しい。

 

なぜだろう。世界第三位の国力があると言われるが、なぜこんなにも貧しいのか。我々の経済はどんどん消費されている。まるで燃え上がらない火にむかって薪をくべ続けているかのようだ。経済モデルが自転車操業だから動き続けるしかない。向こうにある山道を登れるかなどに構ってる余裕はない。まずは入口まで辿り着くつくのだ。

 

よって、この問題は我々の経済モデルを根本から変える事によってしか解決できない。もし海底資源によって財政が豊かになれば、このような議論は必要なくなる。もし日本企業が世界中の富を集めるようになれば、このような議論は必要なくなる。

 

本当は、富むとはどういう事か、ここから問う必要があるのではないか。問題は経済学にある。確か、我が国にノーベル経済学賞を受賞したものはいない。むべなるかな。