丸山氏糾弾決議、全会一致で可決 衆院、本人は辞職拒否

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しようもない政治家の先行きには幾つかある。中には自殺した人もいる。泣きわめいて記者会見した人もいる。神妙に謝罪した人もいる。いずれにしろ、映像や音声が残るインパクトは大きい。一生言われるのである。19世紀には考えられなかった新しい事象である。

 

同じスキャンダルでも、伝聞と映像では説得力が全く違う。裁判での証拠能力の信用性の違いなど、一般の人なら想像すればすぐに分かるだろう。これが理解できないのは一部の裁判官くらいのものだ。

 

彼の弁明は次の通り。

今回の国後島での案件につき、あの場での不適切性や元島民の皆様への配慮を欠いていたことについて、重ねて謝罪申し上げます。

 

ただ、本件での各言動においては、これまでの議員辞職勧告決議案等の先例と比べてもそれ相当の刑事事件や違法行為があった訳ではありません。

 

また所謂、戦争関連の発言に対して平和主義を掲げる憲法への違反行為であるというのも無理があります。具体的行動ではなく懇親会での会話をもって直ちに憲法9条や99条違反だというのは飛躍しすぎており、憲法違反であるとも到底言えないものです。

 

私の当日の言動が不適切であり配慮を欠くものであることは間違いありませんが、刑事事件における有罪判決相当でもない本件のような言動にて議員辞職勧告決議がなされたことは憲政史上、一度もありません。また譴責決議についても、過去のいかなる不適切な言動についても行われたことがないものです。本件に対して何かしらの対応がなされるというのは、院において長年積み重ねてきた基準や先例から明らかに逸脱するものです。

 

加えて昨今でも、同僚議員各位における違法行為の疑いのある具体的行動についての報道、不適切で品位を損ねる院外での言動なども見受けられますが、これら他には何らの決議や聴取などのご対応もない中、要件を満たさぬ本件に対してのみ院として何かしら対応をなされるというのは公平性を欠くものと考えます。

 

決議案採決やその他何らかの対応をなされるというのであればそれは如何なる基準や要件に基づくものでしょうか。国権の最高機関である国会自体が所謂「空気感」をもって、これまでの基準や先例を逸脱した曖昧さで有権者の付託を受けた議員の身分等に関する何かしらの処分や決議がなされるのであれば、それこそ憲法上の疑義が生じる事態や、この令和の時代に多数者がルール・前例無しに人民裁判的な決定を行う言論府となることが危惧される事態でもあります。国会は裁判所ではありませんし、ましてや人民法廷でもないはずです。これまでの基準や先例相当に照らせば、本件における議員の出処進退はその議員自身が判断すべきことであり、報道も多数なされている中、最終的には選挙での有権者のご判断によるべきものかと存じます。上記の理由から、本件について院より何かしらの処分や決議を頂くことについては適当ではないと考える次第です。

 

あの場での不適切性や配慮の無さについて会見等で謝罪と撤回を行い、所属政党よりの処分をお受けしました。また、これまでの本件における報道等での一定の社会的制裁についても甘受すべきものと考えております。最後に改めて、心から謝罪申し上げますとともに、書面での返信となりますことと議運の先生方を始め多くの皆様にご迷惑をおかけしておりますことを重ねてお詫び申し上げます。

 

内容への賛意、反論は別にして、ここで語っている事は、議員身分の正当性に過ぎない。議員は特別扱いされている、特権を有することは憲法にも明記されている(第五十条)。またいかなる発言によってもその責任を問われる事はない(第五十一条)。

 

彼の主張は終始この両条を希求しただけのものに過ぎない。その程度のことは国会議員でも一部の人なら知っている(憲法を読んだ事のない議員もいるだろう)。

 

日本の民主主義の基本は、無能であろうが、逆賊であろうが、一度その地位についた者は次の選挙まで引きずり落とすことはできない点にある。だから、国民の全員が反対しようが、信念に基づいて国の舵取りができる。それが国を救う場合もある。

 

一方で国を売り渡す者をその地位につける事も可能だ。もしその者が憲法を変えて独裁政権を立てても合法であるなら従う必要がある。その結果、国を売り払ってもその責任を問う事はできない。選挙で勝利した以上の責任は国民にもない。民衆はそれを受け入れるのみである。

 

これが民主主義の仕組みにあって、彼の主張はその点では実は正しい。ただ人としてクズなだけである。無能を付け加えてもそう違うまい。馬鹿なのは明らかである。知能が足りないのは当然であろう。それが理解できぬのも、それ相応の人だけだ。

 

ならば、根本の問題は、彼を非難するのが、彼よりも賢いからなのか、彼よりも更に馬鹿だからなのか、を決める決定的な事由にはならない、という点にある。国民はどうやってそれを見分ければいいのだろうか。どうやって国家の健全な運営を聡明な人に託せばいいのだろうか。古代ギリシャでも無理だったものを我々に出来るはずもない。ある人が支持する政治家は、他の人にとってば唾棄すべき人材である。これはいつの世も真実だ。

 

それを如何に決めるかを投票という行為に包括したのが民主主義である以上、最終的な決着は選挙しかない。この政治家を投票させる国民であるなら、ああいう結果になったのは仕方がない。こうやって後世の歴史家が語るしかない事項なのである。

 

それにしても、ここまで厚かまし厚顔無恥、恥知らず、浅ましい人間というものを久しぶりに見た気がする。自分で自分の処置もできぬ無能者が開き直って、最後までやると宣言する。その覚悟やよし。特攻を命令しておきながら戦後ものうのうと生き残った連中はこういう人であったろうと思う。

 

そういう意味では311以降、戦前を思わせる人材が増えた一例として貴重であろう。こういう連中が勝ち目のない戦争へと突き進んだ、という点で我々は21世紀に20世紀を経験している。どこまで人間は卑しくなれるかという点でこの人は顕著な存在である。

 

自分の思想に絶対的な自信を持ち、かつ、検証する知性を持たない。成功する目論見などなくとも正義を大上段に掲げる。自分がやるわけではない。命令すれば世界は自分のものになると信じている。

 

こうして見ると、人間の屑という感じしかしないのだが、はて、この不遜さを支えるものは何であろうか、と疑問を持つと急にこのキャラクターが興味深い人間へ変貌する。

 

これだけの批判に耐えうる強靭な精神、軽蔑されても気にしないスルー能力、しょうもない言い訳でも通用すると信じられる鈍感性、どこまでも自分の正当性を訴えるナルシスト、彼の精神構造は、強く生きてゆくのに極めて有益であろう。

 

他人を本気で蟻くらいにしか思っていなければ、何が起きても気にしない。蟻が地面を張っていても踏みつぶすだけの存在、手を噛もうとすればすりつぶすだけの事。そういう視点を持っていても何も不思議はない。

 

もしかしたら猟奇的なまでに自己肯定感が強いのかも知れない。だが強すぎる自信は、常に他者への侮蔑を必要としているはずだ。自信というものは相対的なものだと思うので、自分を高めるか、相手を貶めることによってしか高低差は生み出せない。

 

絶対的な自信というものは存在しないと考える。常に何かと比較する事でしか生じないと思われるからだ。その比較対象が、人間であれ、神であれ構わない。自分が神と同じ高みにあると思えられれば、他の人間が馬鹿に見えても仕方がない。

 

実際に彼の主張を構成する基本部分は特権意識にあった。その特権も、極めて世俗的な身分であり、国会議員がなぜ特権を憲法に明記してまで与えているか、その理由さえ知らないようであった。

 

特権意識、特権階級はしかし、日本だけの現象ではない。世界的に普遍的に発生している現象である。どの世界でも、権力者が特権を獲得しようとしている流れが見受けられる。あのアメリカでさえ、トランプならばアメリカを使って自分のビジネスを有利にしようとしても不思議はない。そう懸念する人もいるはずだ。ヨーロッパの右傾化は確実に独裁制の危険性を高めている。

 

そのいずれもが、経済的な行き詰まりに端を発する問題であり、思想に意味はない。経済的勝者となる方法が、行き詰まりを見せている。この国では、経済的覇者とは、経済構造を変えて、貧民層から資産を略奪する者である。

 

これからの社会改革は、如何に富裕層が自分たちの利益を増やすかにある。そして、国力を失い、技術力を失い、経済力を失い、停滞、没落する国家において、如何に富裕層が生きながらえるか、そのための仕組みを導入するための政治が行われる。実現すべきは、一部の特権階級による大勢の貧民層からの搾取である。

 

もちろんこれは永続的なものではない。北朝鮮において、最後までその牙城であった平壌も崩壊しつつある。残り火がいつまでも燃えるはずがない。必ず消える。だが、現在の政策立案者たちは30年先も見ていないはずだ。ここ数十年で資産を蓄積し、その後は海外にでも移住すれば良いと考えているのだから。

 

そのために、日本にある資産をすべて自分たちの私有にしなければならない。それまで国家を維持するために海外からの移民(経済的奴隷)を推進しようとする。国を捨てる気なのだから、その後がどうなろうと気にしない。

 

これを可能とするには中央集権が望ましい。多くの不平を吸収して、国民の間に対立を生む。彼らが生存闘争をしている間に、価値のあるものを残らず合法的に奪う。だれにも富裕層の資産に目を向けさせはしない。問題が起きそうになっても、女優が結婚すればその話題で持ち切りになる国民である。

 

日本は信頼によって成り立っている国家である。それを支えているのが、天皇にある。長い伝統と文化はこれを培ってきた。だからこれを利用すれば簡単に騙す事ができる。

 

アメリカは自由という理念のもとで同じことをやっている。ヨーロッパでは、国家主義によってそれを可能にしている。これら右傾化も経済格差も、いずれも経済学の敗北なのだ。21世紀に起きている様々な問題は新しい経済体制の確立のためだ。それがどのようなものか誰も知らない。資源の枯渇、人口の歪な増加、工学技術による新しい地球圏の誕生。国家は既に期限切れの思想かも知れない。

 

これらの過程で没落する地域、国家もいれば、勃興する地域、国家、企業もあるだろう。その萌芽がどこにあるか、まだ知らない。