キム・カーダシアン「キモノ(KIMONO)」「ブランド名を変えるつもりない」

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既に市民権を得たポリティカルコレクトネス(Political Correctness)でさえ理解するのは難しい。まして文化盗用(Culture Appropriation)ともなれば更に理解するのは難しい。これは極めてヨーロッパ文化に根付いた価値観だと思われる。その根底にあるのは著作権とフェアな競争であろう。

 

人間は文化、文明、歴史に根差した集団だから、どのような民族、国家、地域にも独自の発展を遂げた文化、文明、歴史がある。それは長い間に培った価値観であるから、当然だが、観光業などはその上に展開する。

 

その一方で著作権は、個人が自分のオリジナリティを守る事、それに伴って発生する利益を確保する事を目的とする。だから剽窃というのは固く戒められる。当然であるが窃盗が犯罪であるのは、ハンムラビ法典以前からの人間の価値観である。

 

我々の世界には最近になって犯罪とされたものもあれば、一万年前まで遡っても犯罪と見做されるものがある。盗みはその最たるものであり、これは人間の所有がかなり古い時代から存在することを示唆している。

 

だが歴史とは不思議なものでその当時から奴隷は存在しており、ギリシャ文明の発展は奴隷を基盤とした社会であったから可能だったのである。アリストテレスが学問に勤しめたのは奴隷による労働が社会基盤を支えていたからだ。この奴隷の変わりをAIが担えるかは、今後の社会形態に強い影響を与えるはずだ。

 

奴隷は19世紀まで世界中に見られ(現在もないわけではない)、特にアメリカで制度的頂点を迎えた。その結果として確かにアメリカは発展したし、また文化的にも新世界を創出した。奴隷制度がなければジャズもブルースも誕生していない。

 

大航海時代以降の歴史は、ヨーロッパ人による地球規模での剽窃の歴史であり、その過程で地球規模で文化はかき混ぜられるように見える。そして失われた文化、民族、命は決して少々というわけではなかった。その流れから逃れられたのはたんに幸運なだけである。

 

世界の言語の殆どはヨーロッパ語に置き換わっている。その地域の使用言語を辿れば、略奪の経路も見て取れるはずである。DNAと同じように言語の変遷から、略奪の近さが分かるはずである。

 

その当時の人々には、恐らく略奪などという意識はなかったのであろう。少なくとも、略奪が悪いという考えはなかったはずだ。もちろん、同行した牧師は眉をひそめたし、帰ってからも問題視されるような虐殺行為をコロンブスは行っている。それでも、結局は河原から拾ってきた綺麗な石と同程度の理解で落ち着いたようである。

 

日本の強みは江戸時代に培われた文化の多様性であろう。藩という制度によって、地域の文化が独自性を強めた。それが少しずつ地域性を強化したから、それは今でも県民性として残っている。その中でも極めて独自性の高いのがアイヌと沖縄の文化であろう。

 

例えば、独特のアイヌ文様を好きな人が、自分の作品に取り込んでも、これは日本人であるなら問題ないと考えるだろう。その背景に文化の共有という考えがある。それは誰のものでもなくて、みんなのものであるという意識が共有されている。だから誰もが使っていい、という理解に落ち着く。

 

では、このアイヌ文様を気に入った他の地域の人が、自分の国に持って帰って、そこであたかも自分の作品のように発表したらどうだろう。その地域では、その人のオリジナリティと見做されるはずである。何故なら、遠い国の文様などその地域の人は誰も知らないからだ。

 

それから何十年か経って、アイヌ文様をその地域に持ち込んだら、たちまち真似をしていると批判されるだろう。剽窃した方が本流で、された側が盗人扱いされる。これが取り返しがつかない状況になっていても不思議はない。

 

盗人猛々しい者が批判されるのは世界共有の価値観である。そしてヨーロッパ人は平気で盗む(注意:盗んで平気なのはヨーロッパ人だけではない)。それを堂々と自分の権利だと主張する。だから、これだけグローバル化したら、気を付けないといけない。知らない間に我々も盗人に協力しているかも知れないからだ。

 

過去に遡れば、そこには差別や悪意、無知からくるものが沢山残っている。それらとは歴史として向き合うべきであるが、偏見の温床となるような過去は訂正していこう、そういう動きがポリティカルコレクトネスの運動だと思う。ここには歴史の過去と現在、未来へのトレードオフがあるようだ。行き過ぎれば必ず文化、伝統の廃棄、廃止、廃絶になる。

 

それと比べると文化盗用は、構造は簡単に見える。あんた、それ盗んできたもんじゃないよね、と語るに過ぎない。

 

だが、人間の存在そのものが、多く、真似る事から始まる。我々の言語は必ず前時代から伝えられたものだ。その中で自分を確立する以上、誰からの影響も受けていないなどあり得ない。

 

それが芸術家ともなれば、その影響はもっと強いだろう。それが文化、文明、歴史という大きなうねりの中で起きる。我々が受けてきた影響を今さら分離などできない。ブースターがなければロケットが高く飛べないように、過去からの影響なしで、新しい創造などできない。

 

ならば、本質的には文化の盗用などあり得ないのか。誰もが影響を受けるならば、どこで分けられるというのか。これは、どこからがオリジナリティであるか、という話になる。それをそこらへんの裁判官で判断できるわけがない。

 

だから昔から仁義を通すというのがあったわけだ。挨拶に伺う、これが無言による許可となっていたのだろうと思われる。リスペクト、オマージュを明言する事で挨拶とする場合もある。その許容は各地域や個人でも様々であろう。例え丸パクリであろうと完成度のより高い方を認める文化もあるだろうし、似ているだけで毛嫌いする文化もある。

 

これが世界が近くなってきたから余計にややこしい。それでも、独占しようとする動きには、特に、どこにも所有されていない共有されているものに対しての独占は、決して認めてはならないはずだ。そういう盗みを許すことは、文化への敵対行為である。

 

だから、このなんとかという下着デザイナーのメンタリティは、コロンブスやコルテスと同じであると見做してよい。そんな人の作品が本当にいいのか、これがまた難しい。作品の素晴らしさとその人の屑っぷりとは本質的には関係ない。どれだけゲスであっても素晴らしい作品を作る人がいる。だから、その人の作品を否定するのに人格を持ち出すのは卑怯だという気もする。

 

だがこれは、利益のかかっているビジネスの話である。必要なのは、こういう原理的な話ではない。多くの人々を動かす論理やイメージの問題だ。そして勝利するためなら、使える悪いイメージは全て投入すべきだ。これは略奪に対する闘争であるから。