棄権は危険 投票呼びかけ、きっかけは「いらだち」

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棄権は、あなたの国の健全を悪化させる危険性を高めます 

 

恐ろしい事実として、我々は権利を放棄する権利を有する。そこに権利の放棄を禁止する如何なる理由もない。そういう思想を持っていない。故に、投票に行かない事は、決して非難されるような行為ではない。

 

もちろん、民主主義における唯一の権利が投票権である。これ以外に、民主主義に特有の権利などない。

 

例えば基本的人権でさえ、民主主義であろうが、絶対君主制であろうが人間に固有の権利である。もちろん、異論はあるだろう。なぜ人間だけがそのような権利を持つのか、その合理的で、説得力のある、普遍的な思想を提供できる人間はいない。

 

犬や猫、鯨、のみならず、その辺に漂っている藻類は基本的人権を持たない。そう思う。たぶん、持ってたら、昨日の夜、蚊を殺すことさえ出来なかったであろう。ゴキブリが出ただけでキンチョールやアースジェットを持って追い掛け回すような愚挙に出る事もなかったであろう。他の生命への慈しみは駿や綱吉だけの専売特許ではない。

 

そんな基本的人権でさえ人間は放棄する自由を有するのである。この点で自由は強力である。そして、自由であることは、何よりも重んじられる権利である。では、契約によって権利は奪い取れるのか、権利は売れるものなのか、と言うと、それは可能であろう。

 

ただ、唯一はっきりしていることは、たとえ権利を放棄しようが、何時いかなる場合であっても、なんの見返りもなく取り戻す事が出来るという事である。例え契約で奪われようと取り戻す事は可能である。その場合に、新しい契約も代価を必要ない。損害賠償の責任も負わない。権利とはそういうものである。

 

だから、権利を奪う事も契約で縛る事も可能ではあるが、実際には何の利益も得られないはずである。

 

という訳で選挙に行かない自由がある。白紙投票する自由もある。それで何かを選択したとは思わないが、その放棄を非難する原理的な思想は人類は持たない。批判する理由なら幾らでもある。それについては、多くの人が語る通りである。

 

放棄したものを取り戻す自由もある。だが、その時に必ず取り戻す事ができるかどうかは定かではない。手遅れという場合がある。そうなった場合、後悔しても遅い。もちろん、権利を放棄しなくても手遅れになる場合だってある。そういう意味では、選択を行使しようが、すまいが結果は同じかも知れない。

 

選択する事を繰り返す人たちには、選択するだけの理由がある。放棄した人にも選択した自負はあるだろう。

 

一般論で言えば、放棄は選択のひとつではない。武力を放棄することが戦争をしない選択ではないのと全く同じ理由だ。生命の放棄が生きる選択になっていないのと同じだ。もちろん、安楽死を望む人たちもいる、治癒する可能性のない病気において、判断ができる間に死を選ぶという決断がある。すると、それは果たして本当に放棄であろうか、と考えざるを得ない。

 

つまり、放棄するとはどういう意味か。それさえも我々はよく知らないで使っているようだ。考え抜いた上での放棄には価値がある(かも知れない)。民主主義はそれを求めている。

 

どっちみち、放棄しない理由はそう多くはない。まして説得力のある理由などない。

 

放棄したらもう文句は言えない。例えダメになっても、その時に文句くらいは言う。そのために放棄しない。

 

もちろん、その時にはもう何もかも手遅れで暴力に屈し、口をつぐむ可能性だって残っている。放棄しない理由のひとつにはそういう懸念も含まれている。これも大した説得力ではなかろう。杞憂だと言われたらそれっきりである。