宮迫博之と田村亮の寄付は辞退「疑念があるので」

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「お金に色がついているわけではない」は本当にその通りで、本当は色がついているけど、見えない、という意味ではない。お金には、その過程を浄化する力があるというか、色が本質的につかないという特徴がある。

 

だから、税務局も警察も、移動の道程を追いかけるのである。色がつかないから、途中の受け渡し方で判断するしかないのである。それがお金の本質だから。なぜなら、お金とは情報であり、その情報は「信用」である。そこを疑うなら、それはお金ではない。

 

実際に、お金の変動はその信頼の中で揺れ動く。一般的に、信用と価値は連動するが、もちろん、価値を上げ下げするのは信用だけではない。が、最終的には信用で理解できる。数の多寡と価値観は、連動する。価値観を数で割ればひとつあたりの価値が導ける。数が減って価値が同じなら、価値は上がる。

 

数が増えれば、ひとつふたつ、どっかに消えても惜しくなくなる。つまり、個々の価値を信用しなくても代替えが豊富なのである。すると、無意味に捨てられる数が増える訳で実体の数量は減る。だが、総数は変わらないのが建前だから、価値は下がったままである。

 

というわけで「寄付金が反社会的団体から得たものかも知れないという疑念がある」とういうのを本気で疑うなら一切の寄付は断るべきである。それは明らかな話であって、多くの寄付者の中に、加害者からのものがないとは言い切れない。

 

そういう彼らの主張に従うならば、悪いのは実名で寄付した事であり、匿名なり他の名前を使用すれば問題なかったという話になる。まさに、お金に色はつかないからである。

 

と、「全国被害者支援ネットワーク」のホームページをのぞいてみれば

贖罪による(自分の犯した罪や過失を償うための)賛助のお申込みはお断りしています。

 

とある。これも首肯できる考えである。被害者の気持ちというのもあるし、教会のように罪をお金で解決されてはたまらないという感情も理解できる。人々の善意であっても受け入れられないものがある、という主張には納得できる。

 

ならば、彼らが断ったのは、知らぬとはいえ加担したことの贖罪である、と見做したからと答えるべきであろう。それがポリシーならば、それは尊重するに値する。

 

そもそも反社会的勢力の催しに参加し対価を得たというのは、彼らを顧客として扱ったという点で、批判されるべき、というのが本論であろう。そういう勢力を支持するような動きには同意できないという考えである。

 

もちろん、彼らが生命を維持している以上、水道、電気、ガスなどを供給している自治体がある。また、彼らは狩った獲物の毛皮を纏って暮らしているわけではないから、衣料を売った店舗がある。彼らはその犯罪の多くで携帯を利用しているから、NTTかAUSOFTBANK、または楽天などの顧客であることは明らかである。

 

彼らが歩いて移動しているだけとは思えないから、車を売ったベンツかレクサスはどうか。電車移動だってしているはずである。おそらくJRは彼らと繋がりがある。住んでいる家はどうか?誰が売買、賃貸したのか。そうそうよく考えれば、歩いている道だって私道ではないのである。我々の税金で舗装した道である。なぜ使わせるのか。

 

反社会的勢力と付き合っていいのは、税務署だけ、が当然の帰結になる。付き合ったり取引するのが悪いことなら、もちろん、彼らの子供だって、児童局は取り上げるべきだし、小学校なども受け入れてはいけない、という話になる。

 

弁護士は、もちろん、彼らの犯罪も弁護しなければならない。それは権利でもあるし、義務でもある。だが、よく考えろ。なぜ反社に我われの司法システムを使わせる必要があるのか、処分するなら、保健所でやればいいではないか、という話に行き着く。

 

すべてを悪とするなら、この辺りが最低限の落とし所であって、これ以外の結論はありえない。中途半端な正義感に同調する気はないが、では反社でない人たちはみんな健全で善良で正しいのかと言えばそんなことはない。この国で起きる犯罪のほとんどは、反社でない人たちの手による。

 

犯罪者集団をフィリピンよろしく一掃する事は確かに望ましい。だがその結果がどうなるかに余り薔薇色は見えない。いつか、その手は緩めなければならなくなる。冤罪も死ぬほど多いであろう。その空白地帯を埋める次の勢力が、それ以前よりもましとは限らない。より悪化する場合も考慮する必要はある。病院で抗生物質をぶちまけていると、耐性菌がどんどん強くなる。

 

だから、何が言いたいかと言えば、恐らくこういうニュースは悪意に基づいて書かれているだろうという話だ。今回の吉本の件では、多くのニュース記者らにとって、彼らを活気だたせる事件であった事は疑いようがない。

 

久しぶりに起きた下克上、戦国武将らのような生き残りをかけた関ヶ原、力関係の中に渦巻く正義と打算。彼ら自身がそれを傍観する観戦記者となって、のぼせ上っている。この事件で最も興奮しているのがゴシップな世界の人たちなのである。

 

当事者である民放各社(株主である)は、なるべく穏便に、そして昨日と変わらない明日を目指しているが、今日がどうなるかは誰も知らない。たったひとつのレコーダーで話はガラリと変わるだろうし、もし当事者の誰かが警察に逮捕でもされたら、風向きは決定的だ。

 

これを経験した後、我々は以前と違う世界にいる。当人にも世界は変わって見えるだろうし、我々だって同じには視えない。彼らの別の顔がどうしても思い出されるから。

 

これは闘争だろうか、それとも革命だろうか。前みたいな馬鹿笑いはできなくなるだろう。だけど、それだけが笑いではないはずだ。その境地の笑いを体感してみないか。