ディーン・フジオカがクランクイン 井上由美子脚本「シャーロック」

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ホームズに外れ無し。どの国であろうが、どの時代、人種、民族、文明だろうが、たとえ異星人だって、ホームズものは面白いに決まっている。原典である小説は当然として、オマージュ、パロディ、カバー、リメイク、コラージュ、どんなものでも面白い。

 

直近では、正統派アクションであるロバートダウニーjrのSherlock Holmes、ホームズを現代に持ち込んだカンバーバッチのSherlock、その延長のElementary。

 

マンガでは、新谷かおるのクリスティ・ハイテンション、連載中なら憂国のモリアーティ。

 

本作の前には竹内結子がシャーロックを演じていた。そしてフジテレビがホームズを制作する。どんな探偵であれ、創作ものである限りホームズを意識しないことはあり得ず、エルキュール・ポアロでさえ、ホームズというカウンターがいて初めて成立している。すべてはホームズの亜流、反流、傍流、本流であると言って過言ではない。

 

そういう作品を選ぶ以上、何かを狙っていなければならないし、科学論文ではないが、誰も発表したことのない何かが加わっていなければ意味がない。何かを自分なりに狙うのにホームズはよい素材である。多くの人が使い古すくらいに使い倒しているので、ある意味、何をしてももう外れやしない。

 

そういう中でのフジテレビの公式発表が「現代の日本に置き換えた作品」「心の友である2人の男の“冒険ドラマ”」とか、ちょっと信じられない軽い言葉である。手っ取り早く、海外ドラマを東京に置き換えてパクりますと話す方がまだ清々しい。

 

どんな脚本家だって、コピーは嫌だから、何らかのオリジナルを入れ込もうとする。Sherlockは、現代機器の取り込みと19世紀の事件を如何に現代風に翻訳するかに面白さの核心があった。Elementary はワトソンを女性にし(Lucy Liu)ホームズの麻薬中毒を重くして個性化を図った。

 

ホームズくらいになると俳優の力量だけで個性的であったのはジェレミー・ブレットくらいのもんではないか。彼は映像作品の原典ともいえる存在であって、誰もが、彼を通りすぎた上で、自分を表現する。

 

そういう意味ではホームズを演じた人の演劇論は面白いに違いない。一種の天才は何も知らないし見た事もないと言うかも知れない。そういう天才は素敵な演技をするかも知れないけれど、面白くはないし、早く忘れ去られるだろうと思う。

 

苦労は作品の価値とは何も関係しないが、それでも苦労した話は聞きたいと思うのが自然だろう。特に素敵であればあるほど、その秘密を聞きたくなるものだ。つまり、演技論を聞かれない俳優などには価値がない、という訳だ。もちろん、映像だけを見てくれ、それが全てだと拒否する権利が俳優にはある。

 

恐らく、この作品はキャラクターの色気みたいなものを前面に出して、キャラクターの面白さで作品を引っ張るか所で勝負するのだろう。どこまでホームズ作品を咀嚼し、現代に置き換えるかは、脚本家の手腕によるが、さて、不思議だ。

 

白銀号事件など、いまなら車に置き換えるしかなくて、じゃあ蹴られて死ぬかわりに、どんな死に方ができるんだとか、踊る人形ならメールで届くのはいいとして、あんな単純な暗号のままでいいはずもなく、どんな絡繰りを組み込むんだとか、赤毛組合なんかはAKBみたいなアイドル同盟に置き換えて、さてどんな事件にするんだとか、面白さは満載のはずである。

 

ホームズとワトソンのキャラクターの味付けが勝負の全てであろう。さて、どんなホームズか?スタッフの全員が恐ろしいと思っていないなら余程の馬鹿である。それがフジテレビなら有り得るのである。そっちこそ注目かも知れない。