何がどう変わったの? 写真で見る新型「日産 ジューク」スペック向上だけでなく、室内空間も拡充

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ポルシェなどモデルチェンジをした所で何の面白みもない。ふーん、どこが変わったの、ライト?というくらい。車の伝統を重視し、その風合いと素材を融合させようという強い意志を感じる。それでも70年台の衝撃は超えられない。これは間近で見なければ気付かないが Boxster は本当に美しい。

 

それと比べると、日本車にはデザインへの理念は薄い。系統という考えも皆無。出る度に同じ車?と思う車種もないではない。これを逆に言えば、モデルチェンジの度にデザインを楽しめる。博打と同じで、最高のデザインか改悪の極致か、ワクワクとガッカリを毎度提供してくれる。

 

さて、このJukeはどうか。もちろん個人の好みである。

 

なぜ日産はこうもトヨタの後を追い駆けるのか。二匹目のドジョウ、切り株を見守る、日産の勝ちパターンは常にスタートダッシュで圧倒的な車を世に問い、その後からトヨタの猛追で抜かされるというものだ。

 

だから二代目のデザインをトヨタに激しく摺り寄せる。それで戦えるか。まぁ、マーケッティング的にはそれが答えかも知れないが、剛毅のない日産車のどこに魅力を感じよう。どうして最初の路線を突き詰められないのか。恐らく Juke の圧倒的ヒットは、恐らく日産の幹部たちにとっては想定外だったのだ。

 

本心ではなぜこれがこれだけ売れるか分からない、なのだろう。だから、正真正銘、全力のパチモンである C-HR が出現した時、流石にデザインの洗練さで Juke の敗北を感じたのだろう。実際に、最初に見た C-HR はパチモンのくせに魅力あふれる車であった。対 Juke 専用決戦兵器、という感じであった。

 

CH-Rは都会的、アーバンと例えてもいいが、基本的に虫的、装甲的、外骨格的なデザインである。そのモチーフは甲虫に例えてもよい。

 

Jukeの洗練さは、それとは異なる。もう少し柔らかい。曲線の美しさと優しさみたいなものに溢れる。どちらかと言えば芋虫的か、虫愛ずる姫君的か。

 

これは、例えるならアメリカの戦闘機とロシアの戦闘機の違い(デザインのみ)みたいなものである。なぜ同じようなエンジンを積みながら、ここまでもデザインが変わるか。そして、味わえば味わうほど、魅力的なのはロシアの方だと気付く。

 

それは、我々がさんざんアメリカ的な美しさに晒されてきたからでもある。美的意識がアメリカ的工学に侵されている、これは仕方がない。実際に美しいものが沢山ある。

 

所が、美しさの面白さは、それだけが唯一ではないし、それだけが絶対でもないという点にある。日本で最も簡単な例が縄文式土器弥生式土器である。この全く異なる美意識を同じ日本のルーツと呼べるのは、間違いなく我々の知性の劣化の証左でしかないと思うが、この矛盾を我々の祖先も、その子孫である我々も、おそらく未来の人も、なにひとつ矛盾なく受容できるのである。このふたつのどちらもが、我々の根っこにある。

 

縄文人の中にも、弥生式土器にあこがれてそういうものを目指した人も居ただろう。弥生人の中にも縄文式に恋い焦がれ、作ろうとした人がいただろう。恐らく、これらのデザインの違いは土器の元となる土の違いだけではない。そのハイブリットもきっと生まれたに違いない。その土器は今も土の中に眠っているはずだ。

 

しかし、そういう融合ができるものでないことを、我々は歴史を通じて知っている。我々は縄文式と弥生式を統合してひとつにする道を選ばなかったのである。あんなに純化したものを混ぜてもただの不純物にしかならない。そんな結論に至ったのだろうと思う。

 

だから、二代目からトヨタへの羨望しか感じられないのは頂けないのである。そこに若干の Juke 的味付けをしましたという Excuse しか感じられない。この車を正確に例えるなら「NISSAN C-HR Jukeの味わいを乗せて風」である。

 

Jukeの洗練さ、味わい、美しさは C-HR のそれとは違う。それが残っていない。残せていない処か、日産自身が否定した、と思わせるデザインである。これなら日産でなくていい。

 

このデザインを Juke 初代を追いかけるトヨタの会議室で提供したらどうなったか。一目して却下であろう。このデザインであの Juke と対抗できるわけがなかろう、と。

 

日産がよくやるように Juke もあと数回のモデルチェンジの果てラインナップから消えるのだろうか。なぜ Juke がムラーノのサブセットみたいな扱いをされなければならないのか。なぜこの革新的な車を愛せてやれないのか。