東電会長ら旧経営陣3人に無罪判決 原発事故で強制起訴

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責任の所在には、ふたつの視点がある。それは事象の原因と、結果の罰則である。前者の場合、不注意、判断、決断、ミス、誤解、運などが考えられる。小さな事象であるならば、それが唯一の個人に帰結する場合もある。

 

例えば皿を割った場合、その理由は幾らでも挙げられるが、少なくとも該当者は少ない。これはアクターが少ないという事である。故に、判断は極めて単純になる、数人から、関係なさそうな人を除外してゆけば、だいたい残った人が当事者だからだ。

 

所が、これが巨大な事業となると、その結果の事故、事件となると、足尾銅山であれ、敗戦であれ、水俣病であれ、薬害エイズであれ、アクターの数は莫大となり、関係の仕方も複雑になる。ネットワークの関係となって、その責任をほんの数人に絞るのは難しくなる。

 

安部英など無能の極致と認められる一人であろうが、それでも、紆余曲折あり、どのような判断を辿ったのか、履歴でもなければ把握しきれない。ある時点で舵を切ったのが確かに極めてまずかったのだが、つまり勘が悪かったのだが、その原因をどこに求めればいいのか、お金を受領したのか、偽情報に飛びついたのか、老化からくる劣化か、なんとも言えない。

 

いずれにしろ、地震の発生も津波の発生も、誰もが警戒していたのは確かであって、すると、問題は、何時と規模が争点になる。この場合、何時かは起きる、くらいは幼稚園児でも語れるし、それが確かであることを否定する者はいなかった。

 

何時かは分からないけれど、明日かも知れない、100年後かも知れない。規模はどうか。5mかも知れない、15mかも知れない、25mかも知れない。チクシュルーブ隕石が衝突すれば300mである、どの高さを対象として動けばいいのか。この程度の話なら誰でも言えた。

 

言うだけならタダである。その点でマスコミが指摘していたという言い訳も意味はない。国であれ、研究者であれ、官僚であれ、マスコミであれ、少なくとも2011年が危ないと言っていた人は一人もいない。もちろん、1億人もいれば、そう言っていた人もいるのだが、それを積極的に採用するには、頭のねじをかなり外す必要がある。

 

そういう訳で、予見性について語る場合、期間と規模の妥当性が必要であって、もちろん、問答無用で、最初の指摘の時にすぐに着手しておけば、対応できていた可能性は高い。だが、何に対してもそれをするならば、コストの問題が起きる。電気代を10倍、20倍にしても構わないのであれば、確かに対応は可能であった。

 

彼らが、様々な指摘に対して何と相談していたかは明らかである。それに必要な事業費と電気代の関係である。安価で安定した電気供給が絶対の事業方針であった。安全性は、もちろん、重要である。ちょっとやそっとの地震如きで電気供給を止める気はない。

 

だから、津波なら何mが来るかを教えてくれという、過去には10mがあった、15mがあった、どうも20m以上もあるらしい。さて、それはいつ頃くるんだろうか。

 

もちろん、あらゆる点において何ひとつ瑕疵がないなとはあり得ない。事故の内容を詳細に見てゆけば幾つものミスが見つかるはずだ。もしここで違う判断があれば、な点など幾らでも見つかる。だが、その大部分は起きる前に決定していたように思われる。

 

なぜ発電装置は、地下に置かれていたのか、水が下から溜まるのは誰でも知っている。なぜ、ディーゼル発電を監視していた人は居眠りをしたのか。そのせいで燃料切れを起こし発電装置は停止した。

 

すべてが最小コストによる最大効率という生物伝統のやり方で行った。だから、バックアップも、緊急の方法も、足りなかった。そういう意味で、今回の過失は、どこまでは耐えられ、どの点以上は絶えられないかの検証を明確に出さなかった事、絶対防衛圏を設定しなかったこと、そして、それを突破されて以降の計画が皆無であったこと。その点に尽きるように思われる。

 

想定外という言葉は、もちろん、計画がないという意味であって、その本当の意味は、想定内さえ、その境界をグレーにしていた。もちろん、一般的には、規模が大きくなれば、あるポイントを超えたらやりようがないのが現実である。それが分かるから、その時はお手上げと手をあげる仕草をしてみるのだが、今回の事故は、手を挙げた所から始まった。事故後の対応は、本当に奇跡だし、運がよかった。

 

そういう事象に対して、彼らには準備する権限があった。そして、結果論でいえば、彼らは失敗した。間違った決断をした。ではこの間違った決断は有罪なのか、無罪なのか。間違った決断を常に断罪しなければならないのなら、どこで有罪と無罪を切り分けるのか、その基準線はどこか。それは誰も語っていないはずである。批判するのは簡単だ。だが、この基準線がないなら、決めるのは難しい。

 

新聞社やテレビ局が誤報を出すことはよくある。なんなら必要な報道さえしない不作為もある。NHKは公共放送としてひどい。公共放送が国営放送のように振る舞っているが、なんら律する事がない。だが、それで彼らが防止策が機能するまで発行を中断したり、停波したなど聞いたことがない。なぜ原子力発電だけは停止できると考えられるか、平時と戦時を同じ基準でやれるはずがない。

 

これだけの結果を生じた限り、誰かが罰せられなければならない。これは自然な感情である。自ら罰する人が東京電力にはひとりもいなかった。だから、他人が罰するしかない。これも当然であろう。その3人が選ばれたわけだが、無罪となった。

 

司法という制度から見れば妥当な無罪かも知れぬが、正義という視点で見れば無罪などありえない。誰かは罰を受けなければならない。羊は探されなければならない。これは生贄を求める声である。

 

この羊にもし社会的な意義があるのなら、それは、なめた真似したら社会的に抹殺するぞ、という共通認識を社会は再確認する必要がある、という点だ。群れ、集団を形成する動物は、この考えで集団をまとめてきた。群れからはぐれたり、村八分にするのは、集団からはぐれると生存率が下がる、という自然な原則に従うからだ。

 

だから、我々は進化できたとも言える。大きな変化をするためには、集団から追い出されなければならない。我々の祖先が戦いに負け森から草原に追い出され、アダムとイブがエデンを追放され、スサノオが神逐されたから我々は人間になれた。

 

そういう考えは文明の発生とともに認識されていたのだろう。だからブルータスはカエサルを討ったのだし、江戸時代の武士たちは、自らを刀で切った。ムッソリーニは吊るされ、ヒットラーは自殺した。東条英機だけが自殺に失敗したのである。実際に日本人はあれだけの敗戦をしながら誰一人自らの手では縛り首にできなかった。それを代理でやったのは勝者である。

 

そんな我々に彼らを罰するだけの思想も理念も正義もあるとは思えない。これだけの大事故の原因がたった3人のはずがなく、電力会社だけの問題のはずもない。だれもが逃げおおせたと、この判決で思っているはずである。

 

たしかに、地震の発生も津波の到来も彼らの責任ではない。それへの対策を怠ったのか、それとも時間をかけたが間に合わなかったのかも確定的ではない。だからといって、なんら瑕疵がないとは言えない。まったく非の打ちどころのない完璧な対策であったが突破されたような事故ではない。

 

では、これをどう考えるべきなのか、どう後世に伝えるのか。もし社会的に批判できないとしても、歴史的に名を残すことはできる、誰かを愚者として、誰かを無能者として名を刻むべきか。これさえも難しい。決定的ではない。そしてそういう決意を最終的に諦めたものは、ただ歴史として記すしかないのだろう。司馬遷の思いもそういうものではなかったか。