セクハラ告発の女子学生惨殺、校長ら16人に死刑判決

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バングラデシュで起きた痛ましい事件と、その被害者への暴力を、裁判官は厳罰に処した。16名もの関係者を全員死刑とした。日本の裁判官なら考えられないような話だろう。

 

それでも、これが司法の判断としての正義だと思う。もちろん、詳細な内情は知らない。バングラデシュの司法制度についても知らない、刑の施行がいつ行われるかも知らない。

 

死刑判決というとき、死刑廃止について同時に思わざるを得ない。個人的には死刑廃止を主張する場合、死刑よりも苦しめる事ができる、という場合しか許されない。乃ち、毎日、もう殺してくださいと懇願するようになって、それが1年続けば、慈悲として死刑を施行するのはありだ。そういう形での死刑でなければ、到底受け入れられない犯罪が、この世界にはある(病気でも)。

 

日本の司法制度は、コンクリート殺人事件の犯人たちをただ未成年という理由だけで死刑にもせず、拘置所で自殺さえさせなかった、のみならず社会に解放した時点で崩壊した。正義を失った司法制度が、その後、どのように政府におもねったかは数々の判決を読めばわかるのである。今からでも遅くない、彼らを捕縛し死刑にすべきだ。

 

そう考える自分であっても、司法について考えれば考えるほど、これは人間の能力を超えている、と思わざるを得ない。常に正しい判決ができるのか、否。冤罪に対して失われた時間、生命に対して責任を取れるのか、否。罰則は、復讐の変わりを担うのか、否。刑罰は、果たして人間を更生するか、否。では、罰則とは何のためにあるのか。それがなければ、司法は存在しえないか。

 

韓非子によれば、肯。言いつけを守らなかった人の首を跳ねたら、みんな見違えるように動くようになった。人は罰則によって従う人もいれば、それでも反抗する人もいる。問題は人数だから、罰則によってその大部分を抑え込む事ができるなら、その価値はある。

 

だが、これは司法の理念でも理想でもなく、実務上の問題である。つまり、脅迫に過ぎない。脅迫によって人の世を治めるのが正しいのならば、独裁者の方法も首肯しなければならない。はたしてそれは正義か。

 

つまり司法は常に過程にあって、正解はない。それでも判断と決断を続けてゆかなければならない。それはあるラインから、離れすぎず、かつ超えてもならず、ぎりぎりを、まるで競艇のスタートラインと同じように攻めなければならない。

 

この狙う部分から背を向けたならば、それはもう司法とは呼べない。ただの警察の一部、機能に成り下がってしまう。江戸時代、鬼だの畜生だのよばれ、冤罪、何の話、悪人は真砂の数ほどもいる、よろしく、市民さえも恐怖のどん底に叩き込んだ勘解由であるが、当時の捜査手法からすれば、恐らく妥当なのだろう。

 

科学的捜査を重んじないため、冤罪を生み出す罪は、時代が新しくなるほど大きくなる。そのような畏怖を抱く裁判官は日本にいるのだろうか。いや、いるようでは困る。全員がそうでなければ司法制度など何の意味もない。だから人間には無理であると言うのだ。

 

裁判官が最も重きを置いているのが判決の妥当性でも、自分の良心でもない。出世の二文字である。これは仕方がない。霞でも食べれるようになればよいが、人間であるかぎり、欲望から逃れられる者はいないから。

 

だから、AIならば裁判官の変わりになれるのではないか、と思ったりするのである。AIならば、電気さえあればいい。そうであるはずだから…