伝統というものは難しい。変わらないためには変わり続ける必要がある、という春木屋理論。昔のままでいいはずがない、だが、昔のままでなくてはならないのか、それとも、全く新しいものに変わるべきなのか。答えはない。それを決めるのは市場である。やってみてダメなら淘汰されるしかない。
ポルシェは比較的ブランドイメージを尊重するメーカーだろう。大きな変化を極力抑えてきたラインナップが目立つ。それでも、934のカッコよさは、空気抵抗や車体の素材の問題からか、再現はされない。あのままでいいのに、という声は恐らくエンジニアや科学者が否定した結果、無視されたのだ。新しくしなければ、我々は生き残れない。
遂に生産終了したナチスの置き土産、ビートルも、新型のデザインは完全には初代を踏襲したものではない、ひとつの派生型としての再設計であった。だから、初代にあった味わいは、かなり薄められ、雰囲気が辛うじて残る程度の車だった。
ある意味、その名前でなくても構わない、ニュービートルという名称は、だけどニューという感じはしなかった。VWにとっては後継者という位置づけかも知れないが、別物という気がする、寄せているわけには、全く違う車。それも伝統か。
それでもこれらのメーカーはまだ意識的に雰囲気を寄せそうとしている。時代の洗練を乗り越えようとした痕跡が感じられる。それをデザインで表現しようと努力している。
一方のトヨタときたら、これが同じ車か、というほどデザインを変えてくる、または、全く変わらない。モデルチェンジしたら、全く違う車が同じ名前で出てきた、または、ライトが少し大きくなっただけ?みたいな印象しか残らない車が多い。
もちろん、エンジニアから言わせれば機構的は大きく変わっているのだろうし、沢山の改良が施されているはずである。エンジンの味付けも変わっているのだろう。だが、伝統に視覚が占める割合は大きい。
これはラーメンでも同じだろう。色味、具などを変えれば同じラーメンではないはずだ。変わるという場合、ほんの少し変える、後継として大幅に変える、全く新しいものとして変える、とう3つが考えられるが、たとえば Windows は、この物語を語るにふさわしい歴史と成功に縁どられている。
MS-DOSから始まった歴史を振り返っても、CUIからGUIへの移行は、全く違うものに見える。Windows 3.1 と MS-DOSは伝統としてみれば革新のはずである。あらゆる点で新しいはずであった。所がその内部は全く同じである。ほんの少々拡張した程度に過ぎない。この見た目の違いと内部の同一性という部分は、使う側からすればどうでもいい話か。
だが、エンジンもシャーシもまったく同じなのに、全く違う車、というレベルではなく、片方が車、片方が飛行機、くらいの違いなのである。それがWindows95になる時には、更なる革新が取り込まれ、全く違う機構に見えるのにエンジンは同じ、という状況が世界を席巻したのである。
IT担当大臣が変わって、印鑑とITのハイブリッドを目指すというハンコ業界への忖度丸出しの政策が打ち出しされたのだが、ハンコ業界に携わっている人だって数万から数十万いるとすれば、それを無碍に廃止になど出来るはずがない。
すると政治家としては、その業界に未来があるのか、あるなら、どのように永続化を図るか、ないのならどう業務転換してゆくのか、廃藩置県する場合に、最も気を付けたのが士族たちをどうやって食わせてゆくか、であるのと同じ。
印鑑というのは、ITが発展すれば不要だと思うし、象牙の輸入を続ける理由にもなっているので、個人的にはなくなっても構わない。古びた、と呼ぶべきか、終わったと呼ぶべきか、そういう端境期にある伝統の一つだろう。
では印鑑とは何か、歴史は知らないが、要は活版印刷の一種である。ひとりひとりが専用の活字を持ち歩くようなもので、もちろん、筆と墨しかない時代なら、画期的な最新技術であった。墨が乾くのを待つ必要もなく、筆を使う必要もなく、次々と書類を決裁してゆける。印鑑に独自性があるから、それは認証の役割も担う。花押に針で穴を開けていた政宗の逸話もある。
かつての最先端が役割を終える、これは何度も起きた事である。少なくとも伝統としての印鑑にはまだ価値があるだろう。中学生がハンコを掘ったり、それを使って、試験の記名の変わりに使用したりと教育的に体験するくらいの役割は残っている。また手のぬくもりという部分での生き残りも模索できるだろう。
しかしPCが社会に浸透して数十年、印鑑が斜陽となり廃れるのは自明であったはずで、その間に自ら変革する事も、生き残るための施策もなく、ただ社会の中で行わる契約に必須である、という点にのみ生存戦略を図っていたのであれば、絶滅は避けられまい。
すると政治としては、印鑑を必要としない、と宣言するのは多くの非難を受けるから、やるべきは、別の経路、そうでない方法を認め、それによる自然の流れの中で淘汰されるのを待つ、という政策を採用する事になる。
PDFをスキャナで印刷して捺印してからスキャナーで取り込み送り返す、みたいは話もあるらしいが、これを本気で語っているなら、古い既得権益を優遇し、変革を放棄したと同義であるから、変われない国が滅んでも仕方がないレベルだと思う。あたしい時代に対応できないのならもう役割は終わったと考えるべきであろう。
だが、印鑑を知っている世代からすれば、それは徐々に、知らぬ間に消え欲しい部類のものであって、ある日、急に消えてしまっていいようなものではない。
伝統は難しい。それは残るべきとも思うし、残して欲しいとも思う。だから、我々は、伝統というものは、知らぬ間にいつの間にか、ひっそりと消える事を選ぶのだ。
では消えゆくものをどうやって保存してゆくか、そのために博物館がある。価値がある美術は取引される。伝統も価値があるなら取引される。茶碗だの、化石などマニアは多い。マニアがいる限り、伝統は滅びない。逆に言えば、伝統の保存はマニアに任せておけばいいし、社会インフラとしてそういう道を滅ぼさない環境を作っておけばいい。
マニアでさえ手放さなければならなくなるのなら、維持できなくなったのなら、それは国力の低下か、経済的末期であるか、その場合の最後のよりどころは博物館や美術館、工芸館などで市町村レベルで行政しかない。
そういうものを維持するには広大な土地が必要で、ならば都心より地方の行政府の方が有利だろう。そういう所に蓄積されたものが100年後にどのような価値を持っているかは分からない。
かつては、石器を作る名人がいたはずだ。その技術はもう廃れた技術だろう。彼/彼女しか知らなかった石の見立て、割り方、応用の方法があっただろう。伝統としてそれは廃れた、それを惜しいと思うかと言えば、惜しいとは思うが、いまさらどうしようもない、とも思う。残せなかった。それでもその人が作った石器が、いまも博物館で展示されているなら少しはマシかなと思う。
時代は古いものを次々と押し流してゆく。その幾つかは地層に保存された。鳥取県ならお金はないはずである。だから、運営事業体を変えたわけで、そこは新しい試みで、新製品を投入し、それを起爆剤にして、売り上げを高めようと目論むのだろう。だから、必ず失敗する。そんな場所に人々が集まる場所が作れるはずもない、とも思う。観光地を目指すのか、地域に細々とでも継続できる仕組みを目指すのか。と、高知の廃校水族館の時も言いそうだから、自分自身、全く当てにできない。
なぜ我々は昭和の時代に運営できたものを、コスト高を理由に手放さなければならないのか、何がコストを高騰させているのか。多くの企業はそれを人件費と答える。では人件費の何が高騰したのか。その大部分は税金ではないか、という気もしないではない。
ならば、なぜ税金はここまで高騰したのか。行政改革も、政権交代も、その特効薬とはならなかった。何かが、どこかで、大量に金を消費する機関となっている。それが全体の循環におけるどこにあるのか、この国は燃費の悪いエンジンを回しているような気がする、それがどうしようもない、変えられない事なのか、それとも変えられるのか、実はそれが分からない。