「無期」は裁判官全員一致 裁判員裁判での死刑判決覆ったのは

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裁判官は、その身分を憲法でも保障された三権分立を担う構成員のひとつである。

憲法76条

すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。 

 

そのため、彼/彼女らの判決は、彼/彼女らの良心のみに従う。つまり、何人も侵すべからざる裁判官の権利なのである。そうであるから、判決というものは、そのような認識に至った理由を懇切丁寧に説明しなければならないし、そのように運用されている。

 

当然であるが、彼/彼女らの良心に委ねる事は、その判決を尊重する事ではあっても、説明責任を逃れられるものではない。ましてや、冤罪となった場合に、その冤罪の妥当性について検証しなくてよい理由にもならない。

 

つまり、近代国家には、その根底に無能な裁判官をどう排除するのか、という問題が内包されている。この合理的で効果的な解決法はまだ見つかっていない。もしかしたらAIが今よりもマシな状況を生み出すかもしれない、という期待があるのみである。これは冤罪による死刑などという問題よりもずっと本質的であって、死刑などその氷山にある一遍の雪氷に過ぎない。

 

そして人間は人間であるが故に答えを有しない。もし、本件でも死刑とすべきを裁判官が無期懲役とした場合、何十年か先に恩赦や釈放によって、もし再犯をしたなら、これらの裁判官はその犯罪の責任を負うべきだろうと思う。特に再犯が重罪であったなら、その判決の妥当性は強く検証されるべきであろう。

 

その結果、裁判官には再犯に対する責任があるはずなのである。死刑にしておけば起きなかった犯罪が起きた原因はすべて判決に帰する。だから、再犯がもし殺人罪なら、裁判官は殺人の共犯として裁かれるべき事案となろう。

 

このような制度設計をしたら、これが裁判官の判決に影響するのは自明である。そ場合は、疑わしきは死刑とする方向に圧力が掛かるのも当然である。その上で冤罪もまた犯罪とされれば、毅然と良心のみに従える裁判官などひとりも居なくなるだろう。

 

裁判官が憲法でこれだけ独立性を保証されていながら、検察の犬に甘んじてなったり、自らそのように振る舞う者がいたとしても、それもまた良心に従ったと答えられれば、これを罰する法はこの世界にはない。まして出世する事が裁判官においても何よりも最優先される事項であるのだから、良心に従うとは出世する事である、と解釈する事を我が国の憲法は禁止していない。

 

それが良心であるなら、それでよし、と憲法は語る。そのような人材が司法を占めたとしても憲法にそれをどうこうする仕組みはない。それが国民の選択であるのだから。だから政権におもねったり、自分たちの独立性を政府に明け渡したとしても、憲法はそれが良心である限り禁止しない。そして良心を判定する事は誰にもできない。

 

だから、どのような国家も司法がもっとも早く劣化するのだし、無能の吹き溜まりになるのである。どのような国家も中世までは司法の独立性はなかった。それは王や官僚に属すものであって、裁判の公平性は、その国家がもつ道徳性にのみ立脚した。故に、タブーに立ち向かう裁判というも屈服するの、その当人の生き様に託されたのえある。その構造は今も変わらない。

 

だから、イギリスの名誉革命も議会が勝ち取ったのであって、司法ではない。国家において、司法は分立してなければ成立しない訳ではない。これはあくまで苦肉の策であって、それがなければ国家が崩壊するわけではない。こうである方が望ましい、そうある方がより健全である、という理想に過ぎない。だから、人間が運営する以上、司法は簡単に有名無実にできる。

 

その不幸は裁判官たち自身の手で行うという所にある。決して外からの圧力に屈した訳ではないのである。常に彼ら自身の選択による。それを憲法は良心と呼ぶしかなかった。日本の司法は劣化どころか、既に崩壊している。

 

行政の犬として機能することを選んだ道を歩み、この点を裁判官自身が自覚していないのか、いるのかは知らない。自覚していたとしても何ができる訳ではない。声を上げた所で、出世することもなく、辺境に定年まで左遷させられるだけの事である。

 

民主主義において司法は決して解決しえない問題である。そして簡単に消失してしまう制度である。裁判所さえ手中に収めてしまえば、この国を合法的にどのような形にでも変えられる。だが、独立していても簡単に屈服させる方法がある。

 

時に裁判制度は人間には運用するのが不可能ではないかと思う事がある。だが、正義であろうが、復讐であろうが、治安であろうが、更生であろうが、人間は人間を罰しなければこの集団を維持できない。そうしなければ許されない誰かの行為がある。それを生み出した精神がある。罰をなくす事は考えられない。たとえ罪がなくともである。

 

我々はそれを行った精神を恐れている。それが単なる化学変化であろうが、ホルモンの分泌であろうが関係ない。そういうものが存在するという事について、我々は信仰のように強く感じとっている。その何かを我々は「滅する」事を、自分たちの想像以上に深く信仰している。我々はそれを消すための方法を実は知らないのだ。だから代替としての罰が必要なのだ。それが軽すぎるとは滅していないという事であろう。