東尋坊男性遺体 殺人罪などで39歳の男を起訴、少年6人を家裁送致 大津地検

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日本の司法は崩壊しているから、こういう人たちでも死刑にせず、未成年者たちは、数年、収監した後に社会に解き放たれるだろう。コンクリート事件の頃から何も変わっていない。だから、もし彼らは釈放されたのちに再び犯罪をするだろう。少なくともその半数は最低でも暴行以上の重犯罪と考えられる。

 

そういう場合、この事件の判決はまだ出ていないが、裁判官の責任は追及されなければならない。その罰が妥当である事と、重犯罪の再犯の間に、関係ありやなしや、これは最重要な論点として取り組まれなければならない。

 

一般的に死刑というのは社会的に同居不可能であると判断された者を最も確実にこの世界から追放する手段であって、その最も大きな効能は、二度とこの社会に参加しない点である。

 

それが社会に安心をもたらし、被害者の関係者がその事件を忘れるための切っ掛けになる。これはとても重要な話しであって、加害者が再犯し被害者がまた出たというのは、元の事件の被害者、その関係者は二度殺されるようなものである。だから二度とその可能性がない、というのはとても重要な安心感を与えるはずである。

 

一方で死刑の欠点は簡単に殺してしまう事で、苦しみが与えられない点にある。瞬間的な恐怖しか与えられず、重ねた罪の凶暴性と合わないのである。その程度の罰則で満足できるとは思えない。

 

苦しみ抜かせ、自ら殺してくださいと言わせ、それでも苦しみ続け、二度とこの世界に生まれたいなどとは思わせない事、そこまでしなければならない、という考えは、そのまま地獄という発想に繋がるものであって、太古から人はそういう風にして人間を苦しめるべきであると考えてきた証拠である。

 

そして地獄の存在の可能性が確定していない以上、それを現実の世界で実現するのは人道的にも妥当な結論であろう。数か月から数年の苦痛は、もちろん地獄の期間と比べると余りに短いが、その程度は苦しめ続ける方が死刑よりも、罰則としては相応しい。

 

ただ問題はそれを実行する事が、人間の心理的負担として耐えられないという点にある。ギロチンが極めて人道的な目的から発送されたのは、それ以前に首を切り落とそうとしてそれに失敗した罪人たちの苦痛を知らなければ到底、理解できないはずである。

 

切腹でさえ、作法化すれば、切っ先が肌に触れた瞬間には頸動脈を断ち切った。介錯とは、極めて人道的に苦痛を味わわせない制度である。それがかなり早い時点で確立された。キリストが半日近く苦しみぬいたのとは隔世の感がある。

 

だから、そのような罰則は機械によって自動化しなければならないはずである。地獄の獄吏もターミネータのような機械でなければできぬ、そんな事を思うのである。

 

いずれにしろこの犯人たちを社会に復帰させる妥当性はなく、かつ、苦しめた後に死を与えるのが最も妥当な刑罰であり、もしそうでない場合、裁判官たちは再犯に対する責を負う義務がある。

 

重犯罪の中でも特に異常性を持つ事件では、それ以外とは少し異なる扱いをする必要がある、という点で司法は自らを問う必要がある。司法に正義とは何かを突き付ける事件は確かにこの世界にはある。