ゴーン氏の逃亡劇 世界も驚き

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映画のような出来事、ドラマだったらわくわくして見れるけど、実際にやるとなるとハードルはかなり高い。実際に、ずうっと警察から監視されていたら不可能だったはずで、もし監視を付けていたとしたら、これはゴーンは悪くない。警察の無能でしかない。

 

しかし、BBCも指摘するように島国から脱出することは、地続きの国よりも遥かに難易度が高い。それは逆に言えば入るのも難しいわけで、鎖国政策が成功したのも島国だったからで、中国では万里の長城を築いてさえ失敗した。

 

これはそのままテロの活動とか、内戦でも同じであり、戦争の継続を支配するのは、戦場の勝利でも将軍の奇異な作戦でもない。ただひとえに補給にあって、イゼルローン要塞を奪還しなければならなかったのは、ひとえにこの要塞が補給についての問題を物語上解決するという制約のためであったろう。

 

同様に国外に脱出するためには、空路か海路しかなく、吉田松陰にはとばりに紛れて夜に海路という選択しかなかったが、海上保安庁を出し抜くのはそう簡単ではない。外洋に出て長期間航行が必要な大型船では全く捕捉されずに目的地に着くのは正規の海軍を護衛に付けない限り不可能であるから、民間の潜水艦でもチャーターしない限り難しい。

 

とすると空路しか残っていないが、国際空港はもちろん911以降、その警備は非常に厳重で、監視カメラを始めとしたセキュリティ設備は、必ず経路を割り出す。指定人物に対しては顔認証で早期警告が出されるシステムが導入されていても不思議ではない。そういうものを警戒すれば国際空港からの脱出は不可能であろう。

 

PJならそのハードルは低いと思われるが、それでも誰にも見られずに飛行機に乗るのは不可能な気がする。そういう思い込みがあったから世界中が驚いた訳で、この事件をもってして警察、検察を無能扱いするのは気の毒な気がする。ルパンめ、やつにはいっぱい食わされた、くらいの台詞が穏当な所だろう。年末に見たカリオストロの城はさすがに面白かった。

 

すると、荷物として運ぶしかない訳で、コンテナに人間を積んでイギリスに渡った人たちが不幸にも凍え死んだ事件は記憶に新しい。同様にゴーンも荷物となって途中までは運ばれただろうと予想できる。だが、もちろん、荷物だって検疫の問題があるので検査される、それをどう乗り切ったのか、マジシャンか、それとも賄賂による買収か、割と簡単そうなのは、大使館など外国機関を利用する方法だろうか。

 

もちろん当事者たちは、この脱出劇をどのように成功させたかは決して語らないだろうし、警察としてもある程度の推測はしても、仮に決定的な証拠があっても、超えられない政治的な壁に断念するかも知れない。そういう意味では、この事件の背景に日本政府が係わっていても驚きはしない。

 

司法関係者たちは、この逃亡劇について、意見は真っ二つに分かれる。曰く、司法制度への懸念があると主張したければ、司法の場で堂々と開陳すればよいではないか。逃亡は司法制度に挑戦する犯罪であり、この一事を以って彼の全てを有罪とされても文句は言えない(法制度的にはナンセンスな意見である)。曰く、もしIS国の裁判にかけらそうになったら何としても逃亡するだろう。我が国の司法がその程度と判断されても仕方がない。

 

日本の司法は既に崩壊しているのは、数多くの痴漢冤罪の有罪判決に対して、裁判官たちが取った態度を見れば明らかで、この国に真実の評定などないとされても本当に文句は言えない。検察の犬と堕した裁判官たちが齎した当然の帰結である(または無能による帰結)。

 

日本語に不自由な被告人となればその恐怖は猶更であろう。牛久の入国管理センターで起きている事を噂にでも聞けば、日本の司法制度は決して行政に対して有力なテミスではありえない。

 

しかし、司法制度の瑕疵など、どの国でも50や100の歩み、千里に対しては大した違いではない。つまり、この国の司法制度がどうであれ、やったことの罪が消える訳ではない。ただゴーンという人は、日産を救った救世主、恩人であり、日産を資産を私物化した張本人であるから判断が難しい。食い物といえば日本を私物化しようとする連中が絶賛、政府中枢に食い込んで活動中である。

 

さて、この問題は最終的には日産に集約する。日産というお宝を盗もうとするのは何もルパンだけではないという話である。このお宝を誰が合法的に奪うかという物語が主題であって、ルノーは如何にして日産を手中に収めるか、そのためにならゴーンなど売り飛ばしも構わないし、擁護しても構わない。その背景にフランス政府が動いていてもこれまた驚くような話ではない。

 

一方で、日本政府はこのお宝に対して淡泊な感じがする。メレンゲか、はたまた、薄いお吸い物か。トヨタがあれば十分という訳ではあるまい。自由主義経済の信奉者、古典的自由主義、極力、市場への介入をしない哲学でも持っているのだろうか、その割にいろんな不正疑惑が起きているが、日産に対する国としての危機感は寡黙にして聞かない。

 

という事は日本が裏で動いているのは明らかであって、日産の問題には二つある。ひとつは、誰がどの国が所有者となるかという問題、もうひとつは、誰が所有者となった時にもっとも大きな利益を生み出す起業か、それは短期的にはどうか、長期的にみたらどうか、であろう。

 

少なくとも日本の経営者陣では倒産の一歩手前まで行ったわけで、その時の失敗から経営者が刷新された感じは今もしない。トヨタの強さは、世界第二位のグローバル企業でありながら、経営者が最も悲観的な危機感を持っている点だろう。流動し日々刷新される技術と向き合っていれば10年後がどうなっているかは分からない。

 

もちろん日産のエンジニアたちもそれを持っているのは、世界初(だと思う)の商用電気自動車リーフの市場投入、エンジンで発電しモータで走行する e-Power の市場投入、限定的ながら自動運転を搭載したシステム車の市場投入、など、世界の変遷をリードするのに必死で食らいつこうとする感じがする。

 

当然だが、これらの技術開発、市場投入に経営者がノータッチの訳がなく、彼らは非常に熱心な情熱をもってこの世界とコミットメントしようとしているのが見える。所が、経営者の顔からはそういうものが見えてこない。そういう気がする。そこで損をしている気がする。

 

ゴーンを追放劇は、一種古典というか、演劇になってもよいくらいの、山崎豊子池井戸潤のドラマみたいな事件だった。問題は、その後もごたごたが続き、どうもまともな経営戦略という感じがしない事だ。もちろん、フランス革命だって、革命後には粛清の嵐が吹きまくり、それはロベスピエールのギロチンまで終わる事はなかった。

 

では自動車会社の動向の何を見れば企業価値が分かるのだろう。分かりやすいのは販売される自動車を見ていればいい。自動車の魅力が基本となる価値である。しかし、高度の発展した経済では、商品はただのモノでは終わらない。モノの周辺に一杯の付随するサービスがある。ディーラーでの対応など言わずもがな、カーナビなどの装備だってそうである。企業イメージもそのサービスに含まれる。社長の顔だって同様だ。

 

三菱がリコール隠しをした結果、同じモノなのに、イメージは随分と下がった。所がVWは排気ガス不正をしたにも関わらず、いまだ世界一の地位にある。つまり消費者の気分は起きてみて、やってみなければ分からないのである。国民性、伝統、その時の気分までが関係する。トヨタアメリカでのプリウス事故における対応など、その緊張感からこれひとつでトヨタが潰れるかもという危惧がよく伝わったよい事例だと思う。

 

人間はトップに立つ人の苦渋の表情の中に様々なものを読み取るものである。それが単なる勝手読みであってもそれが世論を形成する事がある。だから誠実であるのが最後は武器になるのであるが、宮迫や田村など未だ、宙ぶらりんのままである。彼らの何が悪くて、何が足りなかったのだろうか。それとも、何かが過剰すぎたのだろうか。

 

深刻になりたければ舞台に上がるべきだ。テレビは深刻さを求めていない。そういう気がする。彼らの泣き顔を思い出すから、その間は彼らをテレビで使う気にならない、そういうものがあるのではないか。

 

テレビは上っ面の賑やかさの中に、ほんの1%の深みがあればいいのである。恐らくそういう媒体だし、恐らく、そういうのが儀礼として完成した媒体なのだと思う。だから、彼らがテレビに復活するのは最後になるのではないか。

 

だとしたら先ずは、書体、次に写真付きのインタービュー、次にニュース、そしてインターネットという順序で復活すべきだろう。

 

年も変わったことだし。あけましておめでとうございます。