失敗を繰り返さないための三つの提言 大学入学共通テストの検討会議始まる

dot.asahi.com

 

日本は知性的に劣り始めたと思う。この場合の劣るとは、時代遅れとか、最新の状況に適応できないとか、本質的な部分を見逃して、表層的な部分だけで右往左往するとか、そういう意味である。

 

もちろん、そのような愚鈍さは日本だけの特徴ではない。先進国はどこも大きな壁にぶち当たっているが、その壁が透明なため、どうすればいいか分からないという状況である。これは、透明な壁というよりも、我々はミミズの気分で大地を張っている、と例えるべきか。

 

「手段」と「目的」の取り違えは、よく聞く話であるが、なぜ手段に過ぎないものが目的と化すか、というメカニズムを理解しない人が教育を変えようとしても絶望的ではないか。

 

目的がある。その為にはこの手段を実行すればいい。ならば目的を達成するには、あとはその手段についてだけ考えればいい。これにより目的は手段に変換できた。あとは手段の実現のために邁進すればよい。当たり前の話である。取り違えでさえない。数学で言う所の式の変形に過ぎない。

 

官僚は目的を実現するために手段を立案する。それが計画されれば実現するフェーズに移る。その計画が目的を達成するための現実的な実現方法と定義されたのである。だから手段に邁進するのは当たり前である。当然であるが、その手段に疑問を持ちながらも決まった以上は仕方ないと従う人も腐るほどいる。

 

そもそも目標が『「高校生の英語力を伸ばす」とか「思考力・表現力を育てる」という大きな目標』だそうである。

 

これは教育の指針とはなり得ようが、なぜ教育の大方針が、入試制度に変更を強いるのかという点について何ら疑問が提示されていない。

 

試験制度がある技能に対する習熟度を測定するためのものならば、今の所、人類は試験以上の方法を見つけていない。もちろん、ずうっと身近で指導してきた人ならば、その人の人となり、長所も欠点もよく理解するであろう。

 

だから試験制度とは、無作為に何の予備知識もない集団の中から、ある技能に関する習熟度を測定するものである、という事が分かる。この場合、重要なのは、誰にどのような力があるかではない。その集団をある条件で昇順し整列する事である。そのため試験で肝要な事は、全員が同じ点数を取る事であり、絶対に避けなければならない事である。

 

その為の技術が試験を作る側にはある。だから、解答する側にも対策がある。だから、試験とはその場で何かの創造性を発揮する場所ではない。どちらかと言えば、それまでの経験から類似するパターンを見つけ出し、相手の求めるものを選択する事にある。

 

確かにコンクールなどでは相手の求めるもの以上を提示する場合もあるだろう。だが、例えば、大学入試の数学問題の解答で、問いとは全く違う、数学上の未解決問題を証明して見せても、点数は0点である。少なくとも制度的にはそうだ。

 

まして回答の端っこに、「この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。」と書いた所で、何も評価されない。

 

だから、試験には目的があるのであって、学生を選抜する目的がある。だから、この目的は本質的には教育の理念と何も関係しない。当然、大学側の募集人数に達しなければどんな試験であれ全員が合格するのである。

 

どのような教育をするか。これが、今も未だどのような技能を身に付けるか、という意味でしかない時点で、それは教育の部分であって全体ではない。ましてや、その技能を身に付けるための、最高のプラクティスの開発さえままらならないのに、試験制度をどうこう変えた所で教育そのものの質が向上する訳がない。

 

単に、予備校のカリキュラムが合目的的に最適に効率化したものに変化するだけである。

 

当たり前だが、学力は必要である。特に基礎学力は。基礎学力がなければ人間は何も楽しめないはずである。ゲームを遊ぶにも、最低限の知識は必要である。歴史、幾何、科学、文学などの知識なしで本気で楽しめるはずがない。だから射幸心を煽る方向にシフトしたゲームが人気なのか。

 

社会に要請に答えて、それに合った人材を育てるのは確かに政治の仕事である。そして、先進国では、格差社会を受け入れた以上、奴隷として使える移民、底辺で貧民として搾取される真面目で誠実な市民を求めている。

 

故に、そのような要望を受ければ、教育とは、忍耐強さを持ち、疑問を持たない従順な人間を作る事になる。かつて工業化を目指した時は、真面目で指示を効率的にさばける人材であった。

 

だが、技能は教育の部分でしかなく、最終的に教育とは、個々人が国を捨てても生きてゆける力を身に付ける事である。例え国が滅びようと民が残る事が教育の最終目標である。そしてそういう人材がいれば、恐らく国は滅びない。滅びないために滅んで良いように準備しておく。そういう矛盾である。

 

ベネッセは少子化によって業績が落ちる事が予測される。だから、動かなければならないと入試制度改革にコミットした。彼らは事業のために入試改革を声高に叫んでいるはずだし、文科省ロビイストとして入試改革を推進する人に寄付をばら撒いているはずである。

 

多くの教育改革をざっと見れば、経済界からの要請であるのは確かであって、それは確かに重要であるが、彼らを富ます事が、人材の崩壊を招かないか。彼らはそのような事は気にしていないはずである。彼らはあくまで単年毎に黒字を出さなければならない民間企業である。10年先の長期計画、まして国としての理念など頭にもない。

 

そういう議論を抜きにして入試改革を叫んでも、意味はない。それくらいなら、ベネッセと協力して、よりよい入試制度の開発でも模索する方がよい。少なくともAIがこれだけ話題となり、コンピュータの導入が発達しつつある世界である。

 

9才で数学検定1級に合格した人は、学校で勉強した訳ではないそうである。youtube に転がっている多くの教材を利用したらしい。今の子供は教育を受けるのに youtube 上の教材を自然と探す。自分に合ったものを見つける能力に長けているだろう。

 

技能を教えるという点で、下手な学校の先生では相手にもならない優れた人がタダで授業を公開している。熱心な先生もそういうのを見て、自分の授業に取りいれようとしているだろう。

 

学校も入試も今後とも消えるわけではない。だが、授業が大きく見直すべき時期に来ている。そして、多様で数多くのコンテンツを前に、誰かがこれひとつと決める事などできない社会が到来しようとしている。中心のない世界である。

 

恐らく試験のやり方も変わってゆく。教育の履歴がコンピュータ上に保存されるようになれば、日々の教育の履歴、習熟度を登録しておき、試験をする必要もない世界が来ても不思議はない。個々人を整列するのに試験結果はもういらない。この実現までは何年必要か、また実現できるかは知らないが、研究を進めるべきだろう。

 

だが、1日、2日だけの試験で選抜する必要はもう決してない。本気でやりたければ1年、2年のスパンで選抜する制度を確立する事だ。だが、そうすると途中で帰国した子供はどうなるなど、実務上の問題点がたくさんある。

 

なにもかもをひとつのシステム上で網羅しようとするのは、そもそもの間違いかも知れない。天網恢恢疎にして漏らさず、は老子の言葉だが、人間のシステムでは不可能そうである。

 

その辺りを設計するのはエキサイティングでやりがいのある仕事だと思う。