植松被告「控訴いたしません」相模原殺傷公判が結審

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コロナウィルスの蔓延は、社会的強靭性に関するこの国の知見を得られる良い機会で311に比肩しうるパニック状況にある。もしこれがエボラ出血熱だったらとっくの昔に崩壊しているはずである。コロナ風邪程度で良かったというのが実直な感想である。

 

疫病がマクロ的なら、この殺人者の思想はミクロ的な衝撃である。誰も役にも立たない人間は殺しても良い。だから障害者の排斥は社会のためである。のみならず、それが本人たちにとっても望ましいという思想までは僅かである。これを完全に否定するのは難しい。なぜならこれと類型する思想はあちこちで見受けられるものだからだ。通常を考える場合には極端に限る。この事件はそういう類の思想である。ラスコーリニコフか、おい。

 

この犯人は純真だったのでも実直だったのでもあるまい。あまりに孤独過ぎたのだろう。だから人として当然に備えておくべき必要だった何かが欠落したのである。言い換えれば欠陥品である。だから死刑は当然である。という考え方ではこの犯人と同じになってしまう。

 

存在しないものには気付けない。だから死刑判決が出ても何ひとつ、振り返ってみても訂正するものがないと主張する。私の思想は正しい。多くの人が反省して欲しいと望むが、彼からすればテーブルの上に料理など何もないんだ、君たちは料理があるあると言うが、このテーブルの上にはそんなものはないんだ、幻想なんだという感じか。

 

我々は馬を育て競走馬として送り込む。家族同然だと言う。もちろん、わずかな金額のために子供を売るなど戦前には実際にあった話であるし、今でも戦争地域では行われているであろう話である。アフリカの子供兵の話を待つまでもなく。だから悪いって話ではない。

 

当然ながら走らない馬は肉の塊である。家族同然であろうが、売るしかないのである。屠殺場に。それを知っていても馬肉は旨い。ニンニク持ってこいと食べる手を止められない。

 

ヒューマンズという英ドラマ。シンスと呼ばれる人型アンドロイドが登場する近未来。人間の生活を支える基盤にまでなって社会に浸透している。格安な値段でお手伝いとしてもレンタルできるし、工場で働かせる事もできる。アダルトモードだって甘美している。人はそれがロボットであるという事で、破壊したりいじめたりする場面も描かれている。

 

故障したり不具合があれば処分する事に何の良心の呵責も必要ない、これはシンスなのよ、そのようにドラマの中では描かれている。壊れたトースターと同じだ。そのような状況で感情を持ったアンドロイドが誕生したらどうなるのか。寄り添う人間、敵対する人間、人間の意識をコピーしようとする科学者、そして、人間と敵対しようと決意するシンス、人間を支配しようとするシンス、ざっくり言えば、その先にはターミネータの世界が待っている世界。

 

実際の研究ではロボットや人形であっても人型のものを破壊するのは精神的ストレスが高いという研究もあるようだ。アメリカ軍は兵士の安全を確保するために遠隔操作の無人機を導入した。これをアメリカ大陸で操作する兵士が、モニター越しに中東で行われる作戦に従事していると、安全にも関わらず精神を病む人が出現するそうである。

 

一方でイギリスの狩場では彼らの獲物ウズラを横取りする猛禽類を撃ち殺すハンターが後を絶たないそうである。これ違法であっても平気でやる人がいるとBBCがニュースしてた。ひなが目の前にいても親鳥を殺すケースまであって、そうだよね、お前ら数百年前にはそれを人間相手にやってたよね、という感情しか湧かない。あれ?ポルトガルやスペインだっけ。

 

くたびれたバイクをメンテナンスし、動かなくなったエンジンに寂しさを感じる人が、全く同じ人が、人間の屑は殺しても構わないと主張する。凶悪犯罪者、人身売買者、今ならマスクを独占して高値で売る人間。こんな畜生どもは処分して構わない。密漁をする者など裁判も不要である、その場で射殺してよい。

 

かように正義とは恐ろしい。正義は一切の躊躇を麻痺させるから。原爆の業火で人を焼き尽くす事は正しい事であったか。日本が戦争を止めたのだから正しいのだ。だが止めさせるのにあれだけの残虐な殺し方が必要だったのか。ではどうすれば良かったのか。勝ち目のない戦争を止めなかったのはアメリカの事情ではない、日本側の事情である。

 

冷戦が終わって我々は核兵器が使われる危機の中にいる。北朝鮮はいざとなれば必ず使うだろう。命令者が殺された後に全国民がジェノサイドされてもどうってことはない、それくらいにはうそぶくだろう(使われた側は北朝鮮人民を完全にジェノサイドしなければ許せないはずだ)。イランがもし核を手にしたら、きっと使う。防衛のためという名目で必ずだ。

 

だが、それはどのような国だって同様なのである。自分たちの民族の滅亡を掛けるなら、地球ごと巻き込むくらいは当然の戦略だろう。だれが躊躇するものか。日本は核兵器はもっていないが、地上を汚染するだけの核廃棄物くらいはある。大気中にぶちまける構想くらい持って当然である。

 

殺す、殺さないのを妥当性で考える限り、役に立たない人間は殺してもよいという結論になってしまう。例えば、自分の手は染めなくても、使えない社員には会社を辞めてもらうだろう?その後にどうなろうかなど記憶からすっかり消去しているはずだ。

 

それは殺していないではないかというのは距離が短いだけでベクトルは同じ方向だろう?では企業はどんな社員でも一度雇ったらずうっと面倒みるのか、そんなバカな話があってたまるか。使えない社員なら辞めてもらう。向いていない仕事をやるより、もっと合った仕事を探した方がいい。お互いにとってそれがベストではないか。

 

日本にだって餓死者がいる。生活保護を断った役所の職員は、では殺人者ではないのか。彼/彼女は it is my job と言う。そして餓死まで追い込んだ事は it is not my fault と答えるはずである。どこが違うのだろう。ナイフを手にしたか、書類をゴミ箱に捨てただけの違いしかない。

 

恐らく生命という問題は、脳死問題でも語られてきた。例えば、障害者だって誰かの大切な希望となっている、という考えさえ、彼に云わせれば、では誰の希望にもなっていない者は殺してもよいのだな、と論破される。理由を求める限り、役に立たなければ殺してもいいという結論に辿り着く。

 

人間は、理由もなく生まれてくる。そして生まれた以上、何の理由も必要とせずに生きてゆく。不幸にして障害を受けた人がいる。医療が発達する前ならば、経済的に豊かでない地域ならば、死んでしまった人が今も生きている。それが許せない、くらいには思っているのではないか。

 

自然状態ならこの人は死んでいたはずだ、だから死ぬことが自然だし、死ぬべきなのである、という思想の根底には我々が構築してきた技術文明への空虚さがある。自然とは何かという空虚さがある。なにひとつ頼りにしない感じがする。そこまで孤独であったのか。

 

政治家が税金の無駄使いとつぶやく。子供を産まない結婚など社会にとって何の益もないと主張する。富国強兵の頃は強い男の子を産まなかった人は肩身の狭い思いもしただろう。役に立つ、立たないという基準。ナチスだってやった事だ。という事は誰だってやる。ナチスと我々の間には溝も柵もありはしないのである。

 

この犯人の直線上に竹中平蔵がいる。人間を搾取する道具としか見ない社会に変革をし続けている。人間の権利などはなから相手にしない。人と金額は同値であるとしか見えない動物である。ならば、違うのはただ直接的かどうかだけではないか。一円にもならぬ人間になど用はない。社会の底辺で勝手に朽ちろ、というのが本心で見え隠れする。

 

実際に、この社会では人間の価値はその年収と資産に極まる、だから裕福な家に生まれた者はそれだけ有利なのだ。それに裏付けられてステータスが違う。人生の勝者たちは、資産を大切にして手放さない。だがテレビに出れば、生きがいだの、人間らしさだのを全面に出す。お金がある事が本当に幸せとは限らないとか偽善を語る。本当に大切なものを人前に晒すバカがどこにいるものか。

  

この世界には確かに殺した方がいい人間が存在する。被害者の家族や友人からすればこの犯人はその一人であるはずだ。コンクリート事件のような凶悪者は今からでも死刑にすべきだ。そして、殺してよい理由は何か、何の役にも立たないからか?

 

そうではなあるまい。この社会において存在を許してはならないと判断するからだ。社会の脅威である/あったからだ。だから、見せしめで構わない、この社会に誕生したことを否定しなければ我々の社会が維持できない、そう思わせる凶行というのは確かに存在する。

 

では、その凶行こそを憎むべきなら、それを行った人間は含めないはずである。罪を憎んで人を憎まずとはそういう意味だろう。だが、凶行を行った人間の体には罪はなくても、それを行った「脳」に罪がないとは言えないはずである。

 

ここに至り、問題の核心が「脳」へと辿り着いた。この凶行に及んだのは一体どのような「脳」であるのか。このたった一つの問いに全てが極まった。それを解明するには死刑では不十分である。