松本零士「クイーンエメラルダス」全3巻で復刻、雑誌連載時の体裁を再現

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このKCコミック一巻は持っていた。おんぼろ船で海野広が宇宙に飛び出すシーンを覚えている。鶏口となるも牛後となるなかれ、それが親父の口癖だったとかなんとか。

 

ハーロックと言いエメラルダスといい、漫画は中途で終わった感じがするが、そう感じるのは松本零士の中にある全体像を俯瞰してみた事がないからだろう。一部を切り取って全部と勘違いしている訳だから。

 

が、復刻版7000円は高い。もちろん、こうやって忌避する人を考慮するからこの値段になったわけで、ビジネスとして真っ当な価格設定なのだと思う。

 

しかし驚いたのはクイーンエメラルダスさえ復刻しなければならない状況にある事だ。松本零士を語る上では読んでおいた方がいい作品だと思う。それが絶版である。

 

はて日本にはどの分野にも名だたる先駆者たちがいる。彼らの作品は世界が続く限り残すべきものであって、その文化的価値は高い。のみならず、新しい未来を開くための起爆剤であるとさえ考える。

 

今の若い人たちはVHSカメラというアプリで動画を楽しむそうである。これは非常に面白い。前世紀の人が死ぬ思いで技術革新を目指してきた旧式然とした画質が、気付けば、古いものにも味がある、という楽しみ方をしているのである。古風にいえば、わびさびの再発見である。

 

我々の未来の切り開き方は常に古きを訪ねて新しきを想う所から始まる。過去と切り離された今日で来る明日などたかが知れている。ニュートンだって巨人の背に乗ったから遠望できたと語っているのである。ま、彼からすれば巨人の背の上まで来れると思うならやってみればいいじゃん、という謙譲マウントだと思うが。

 

紙だから高いのか、だとすれば紙媒体という方式は後世に残すには最適解かも知れないが、伝播するという点では既に劣っているのかも知れない。だが、我々には魔法の賢者がいる。空気中を伝わる魔法の波もある。それらを蓄積する魔法の基地と、それを表示する魔法の金属がある。大魔導士シャノンの呪文も入手済みである。

 

デジタル化すればこういう問題は一切解決するのではないかと思われるが、それは伝播を最優先とした場合のベストプラクティスであって、恐らくビジネスモデルとしては最適解にならない。少なくとも多くの人がそう考えている。

 

およそ多くの遺産が著作権を盾に人目から触れられなくなり、狸たちのようにひっそりと姿を消した。埃をかぶった状態でどこかに埋もれている。そのまま紛失するものも多くあるだろう。我々の技術はそれらをすべてサルベージしてデジタル化する能力を持っている。しかし、それは多くの権利者の得るべき利益を奪う行為でもある。つまり、我々は多くの権利者の利益を守るために多くの作品が消失してゆくのを黙って見守るしかない、という状況にある。

 

 

これを21世紀の焚書に例えて何が悪いだろう。秦の始皇帝の伝説は2000年を超えて、今も愚かさのひとつとして数えられている。燃やされて失われた書物について我々が知る事はもうできない。

 

今も昔も愚かな(そして未来も愚かな)キリスト教徒たち(全員とは言ってない)の手によって虐殺されたテオンとヒュパティア。Alexandria図書館の多くの蔵書は紛失して失われた。

 

もし定家が写本をしなければ多くの受験生は古典などという勉強をせずに入学試験も楽に済んだのにと嘆く。もちろん、その場合、この国の国文学はこれだけの豊かさを享受できてはいないだろう。恐らく手塚治虫火の鳥だって生まれてはいないはずだ。貧困な土壌に大花が咲く事はあっても野一面を詰め尽くす様々な花が咲き乱れる淫靡な風景は生まれまい。

 

いずれにしろ著作権が伝播を抑制する圧力になっており、かつ、市場原理によって淘汰されてゆく文化がある事は否めない。およそ歌舞伎役者もテレビなしでは維持できまい。大阪が都構想の過程で伝統文化廃絶に舵を切ったのは記憶に新しい。

 

確かに市場原理で失われるものがある事は正しい。全ての生物が絶滅せずにこの時代まで残っているわけではない。ならばうなぎが絶滅するのも当然ではないか。タレが美味しいのだもの、なぜ海外の動植物が国内で帰化するのを危惧する必要があるか、それだって淘汰だものという意見にも一理どころか十理はある。

 

その結果、豊饒な大地が砂漠化したって良いと考える人がいる。私の代で儲けるだけもうければ、その後の社会がどうなろうが知った事ではない、を基本理念にして、今の日本は構造改革を続けている。小泉竹中路線はそういうベクトルだ。

 

今日の著作権を歴史の始めに持ち込めば、我々の文化はこれほどの発展はしなかった。絵画も短歌も小説もすべて、剽窃と真似によって発展してきた。だが、フォスターのような優れた作曲家の貧困に対する反省が著作権の新しい考え方を生んだのもまた重要である。今日の著作権もまた貧困に対する問題提訴だった訳である。

  

copyleft という考え方がある。著作権は保持するが、あらゆる伝播を認めるという考え方である。この考え方は市場を最大規模で拡大を目指すものであって、直接的な販売で利潤を得るのではなく、市場が豊かになれば、その著作権保有しているだけで十分に利益は得られるだろう、という考え方であると思う。この考え方は生物の増殖モデルとも類似するらしい。

 

権利を囲い込むのではなく解放する事で豊かにするのは、例えば麒麟や黄金が行った楽市楽座に似ているともいえよう。歴史家の再評価によって解釈は変わりつつあるが、少なくとも既存の市場原理を排除する方向を目指したのは間違いない。それによって、市場が大きくなったのも間違いない。

 

一方で strict な権利を行使すれば、キャンディキャンディのように、市場から完全に排他されるケースも起きる。あれだけ少年少女の心に強い印象を残した作品が市場から完全に消えた。消えたのみならず、あと数十年は復活する兆しもない。解除された頃には古典である。どらくらいの古典かと言えば森鴎外と同レベルの古典である。教科書以外で誰が読むんだ。

 

一方で、Disney はこの権利によって作品のクオリティを維持し、他社による再生産を禁止した変わりに、自社で総力を以って作品を生み続ける体制を完成させた。今ではアメリカを代表するメディア王である。もちろんネズミが主役となるアニメなどとうの生産は終了し、それに変わる新しい主人公を日々誕生させ続けており、この手法は上手くいっているように見える。

 

サンリオのキティもまた強力な権利を主張するが、コラボレーションという形で広く市場を席捲する方向に動いている。コンプライアンス上、エロまで許可するのかどうかは知らないが、そういうR18のキティがあってもそういやな感じはしない。

 

仮面ライダーシリーズ、ウルトラマンシリーズが毎年再生産され、ガンダムシリーズのように新しい世界観が加わり続ける作品もある。ヤマトや銀河英湯伝説のようにリスペクトをもって再生産された作品もある。しかしジブリはそう遠くない未来に生産を完全に停止するだろう。手塚治虫とAIのコラボがモーニングで新しく始まる。新しい試みが模索されている。

 

 多くの本当に多くの作品が消えてゆく。ナックルNo.1なんてアマゾンで辛うじてサルベージできるくらいだ。古書、古本屋などは衰退しつつある気がする。もちろん、紙が問題なのだ。

 

紙は伝播するには既に最高の素材ではなくなった。CDが売れなくなったのも最高の素材ではなくなったからだ。これらは蓄積をするには最高でも、伝播として見ればもう有力な素材ではない。

 

この伝播と蓄積がかつては一体であったのに分離した。そういう時代になった。伝播こそが巨大な力を得るほとんど唯一の方法である、これはひとつの強力な信念である。それはネアンデルタールの人々よりもホモサピエンスが長く生きながらえたその瞬間からずうっと。今も。