意図と違う文脈に……『この世界の片隅に』の片渕須直監督 物議醸したインタビュー記事

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最初にこの記事に反応した人たちは、日本のアニメをガラパゴス扱いしている、とか、子供用の優れた作品がないと語っている、という点について、ひとつひとつ実例を挙げながら反論をしていた。失望だの時代遅れという非難もあった。

 

一部の業界に詳しい人や親交のある人は、記事の主張からではなく、記者の書き方に対して疑問を呈していた。いわく、これは記者の主観が強すぎる記事の問題であると。

 

つまり、この問題には幾つかの層がある。どの地層を見るかで全く違う結論が得られる。人間は自分が掘った地層でしかものを言わないからである。

 

ひとつの記事にも、監督の表現があり、これに記者の理解が入る、そして、これを記者が表現したものになる。更に読者の理解があって、それを表現する所まで含めると多くの地層が出現するのである。

 

地層はフィルターみたいに働く。流れ的には次のように理解できるだろう。

 

  • 監督の本心⇒フィルタ1⇒監督の表現⇒フィルタ2⇒記者の理解⇒フィルタ3⇒記者の表現⇒フィルタ4⇒読者の理解⇒フィルタ5⇒読者の表現

 

本心をそのまま表現できると思ったら間違う。自分が書いたものでさえ誤読する可能性がある。相手が自分の意図とは違う読み方をしてなぜ批判できよう。

 

片渕須直監督のアニメに対する考え方もひとりの視点を外れるものではなく、何かを代表しているわけでもない。同じ業界にだって真っ向から反論する人だっているだろう。全体主義でない限り、考え方とはそうなるものである。

 

試験問題の作者というのが試験を作成した者を指すように、記事はそれを書いた者の表現である。その過程で誠実であるかどうかは、当人、編集者、企業の人間性に依存する。嫌われたり、信用を失えば、その業界で仕事が出来なくなるだけの事であって、記事の本質とは関係ない。

 

朝日新聞なんて右から左から叩かれまくっているので、ある意味では外野の声には無頓着になっているだろう。厚顔無恥とは彼らのためにあるような言葉といっても間違いではない。腐っても新聞社なのである。記者たちのプライドがエベレストより高くても何も不思議はない。陽だまりの樹を読んだ事はないのかな。

 

まぁ、記者というものも自分のものの見方には絶対の自信を持っているようでなくては困る。それくらいでなければ、これといったものは将来に書けまい。野心に燃える者がインタービューの相手を足台くらいにしか思わなくても不思議はない。そういう年頃である。

 

そもそもインタビュアーは素人なのである。少なくとも、その道のプロならインタビューをする必要もない。だから素人を理由にその記事を評価するのは正しくない。素人だから怪しいというのは論理になっていない。ただの排他である。

 

知らない事を知ろうとしない態度、約束を守らない事、相手を見下した態度、何より、真実を軽んじる態度を非難する事は、おそらく物事の本質にはならない。なぜならその中にはルールやタブーも含むからである。

 

例えば、業界新聞の記者は仕事柄その業界について素人では務まらないレベルの知識が要求される。囲碁や将棋の記者も同様に、ルールや団体、棋士の名前も知っておかなければ仕事になるまい。だが、その人の棋力が5段以上なければ記事が書けないと言われたら、そりゃ違うだろうという話になる。

 

伝える事と理解する事は違うのである。もちろん理解する方がいい。だが、本当の先の先には、どうしても理解できない事がある。理解できないけれど伝えたい、そういう思いが記事を書かせる原動力であろう。

 

前提となる知識はある方がいいに決まっている。アニメの話をするなら金田伊功森やすじの名前くらいは知っていて当然という話である。ではそんな生もも知らない人でなければインタビューをしてはいけないのか。どうも斜陽の業界はそういうものを当然のように求めるきらいがある。

 

どんな産業だって最初は素人の集団であったはずだ。手塚治虫は最初からプロだったはずがない。最初から神様だったのでもない。彼が切り開いた荒野は恐ろしく雄大であるが、彼は最後の最後まで一本のペンを握って大地を耕す農夫であったろうし、常に新しい分野にチャンレンジする時は素人の自覚を持っていたろう。もちろん、ただの素人ではない自負はあったはずである。彼の前には Disney という巨人がいた。その尊厳を最後まで失わずに歩いていたと思うが、Disneyが歩いた後ろをただ追いかけていたわけではあるまい。

 

プロの集団なら求めるレベルがある。それは人間のあらゆる集団でも同じ。だから学校では算数や国語を教える。求めるレベルは高いに越したことはないが、それが低い事が、誰かの参加を非難する理由になろうか。

 

ニワカを排他したい人はどこにでもいる。それがどういう心理から起きるのかは知らないが、ニワカを否定する集団はすぐに衰退する。業界ごとそうなればその業界も停滞する。裾野を広げる気がなくて、どうして高い山が生まるだろう。

 

どうすれば多くの人にこの魅力を知ってもらえるか、NHK杯武宮正樹が嘆息した気持ちは多くの人が持っているものだろう。多く自分のいる業界には危機感を持っているはずである。優れた美点と同じくらいに下らない汚点もあり、問題が山積している事を自覚しているだろう。これは、道を切り開いている最中には起きない問題意識である。立ち止まる事で見えてくるリアリティがある。

 

成層圏に達するまではロケットの切り離しを心配しても仕方ない。どうすれば広く知ってもらえる、広く知ってもらう以上は、表面的、浅瀬的な部分があるのは当然である。泳げもしない人をマリアナ海溝に連れて行ってどうするのか。

 

だから、誤解も誤読も死ぬほど、盗人が尽きぬ如く、流れるだろう。そういうものにも強靭でなければならない。多様性とはそういう意味だろう。西崎義展みたいな人も参入したアニメーションという業界である。そのポテンシャルは高い。

 

間違いを訂正する事と排他は同じであってはいけない。同じベクトルを向くから争いが起きる、それが人の世だとしても、味方は多いほどいい。

 

日本のアニメーション産業は、既に停滞しつつある。危機感を持っておいても何の損もない。数年前までは笑い飛ばしていた中国クリエータたちが今日も作品を磨きぬいているのである。近く抜かれるのは自明である。

 

さて、映画「Fukushima 50」に対する菅直人の達観が面白い。

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