学習院大学 国際社会科学部 謝辞 2020/03

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卒業生代表・小堀奈穂子

 卒業生総代答辞の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎない。大きな期待と少しの不安で入学し、4年間の勉強、大学への感謝、そして支えてきてくれた皆さまへの感謝が述べられている定型文。しかし、それは本当にその人の言葉なのか。皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、わざわざ言葉で表現する必要はない。見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ。


  私は自分のために大学で勉強した。経済的に自立できない女性は、精神的にも自立できない。そんな人生を私は心底嫌い、金と自由を得るために勉強してきた。そう考えると大学生活で最も感謝するべきは自分である。

 

  すべての年度での成績優秀者、学習院でもっとも名誉である賞の安倍能成記念基金奨学金、学生の提言の優秀賞、卒業論文の最優秀賞などの素晴らしい学績を獲得した自分に最も感謝している。支えてくれた人もいるが、残念ながら私のことを大学に対して批判的な態度であると揶揄する人もいた。しかし、私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。

 

  もし、ありきたりな「皆さまへの感謝」が述べられて喜ぶような組織であれば、そこには進化や発展はない。それは眠った世界だ。新しいことをしようとすれば無能な人ほど反対する。なぜなら、新しいことは自分の無能さを露呈するからである。そのような人たちの自主規制は今にはじまったことではない。永遠にやっていればいい。

 

  私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない。大学で自分が努力してきたと言えるならば、卒業生が謝辞を述べるべきは自分自身である。感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない。

 

若いうちに天狗にもなれないような人に前途などない。そういう意味では全ての若い人が天狗なのである。意気揚々と今日死ぬなんて絶対に信じないような生命力がある。もちろん、病気になったり先天性の障害を持つ人も居る。それでも、それぞれの人の数だけ若さがある。それはもう遠い過去になった人も同然である。

 

自分だって若い時は周囲の大人は全部バカにしか見えなかった。難民、民族浄化、核廃棄物処分、多くの問題を解決もせずに大人面されても笑わせるだけである。その無力さの前に跪けとしてか思わないものである。

 

暫くして、自分もバカのうちのひとりに過ぎぬと思い知る。だから自分だってもしあったなら祝辞の時にはこれくらい書いたかも知れない。そして、自分の言葉で語ろうとすれば己れの姿をさらけ出す。てにをはの使い方にさえ侮蔑も偏見も差別心も表出する。

 

例えば。

「ありきたりな言葉の羅列に過ぎない」と書く卒業生総代答辞が、「支えてきてくれた皆さま」という一言にありありと周囲の人たちの侮蔑が込められて微笑ましい。たしかにありきたりな表現なのである。

 

若い人が「定型文」の強さも知らないのは当然である。定型文とは自分を馬鹿にみせるためにある。だからバカにしか見えないのは当然である。馬鹿の演技している役者に向かって馬鹿と指さしても、さて笑われるのはどちらだ、という話である。

 

「皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、」そう、あのナチスの残虐を学び皆が同じ結論に至るなら「わざわざ言葉で表現する必要はない。」。ドイツが記念館を作り、繰り返し必死になって風化に抗う必要もない。同じ言葉だからといって皆が同じように考えているとは限らないのだ。

 

若さとは触れれば切れる刀を持って振り回す事だ。鞘に入れる事を考えもせず。周りにあるものを全て切ってみなければ切れ味を確かめられない。だから「見事な」と馬鹿にする「定型文と美辞麗句」の中に「完全な思考停止」を見出す。思考停止したのではない。その言葉の中に隠したものがある。それを拾うには年を取る必要がある。

 

若い人の特権は、年を取ってみなければ分からない事があるという事を知らなくて良い点だ。そんなものを知る必要がない。だから簡単に既得権益を破壊できる。だから古い人たちを置いてきぼりにして先の先へと進む事ができる。

 

彼女は発表の場に飢えている、おそらく理不尽と考えるくらいに。自分の存在を発揚する場所を欲している。それが鬱屈するまでに。自分の存在感をあらん限りの叫びを表明したい、そういう発散の場を求めていたように見える。

 

受賞作品(優秀賞)『高齢化社会をどう考えるか』

 

この優秀賞でさえ彼女には不満ではなかったか。自分への正当な評価を欲するのも若さの特権である。だから発言の機会を得た時にそれをどう使うは個人の自由でいい。それをどう戦略的に行使しようが自由でいい。ならば問題は戦略はひとつでないというだけの話になる。

 

「私は自分のために大学で勉強した。」普通に聞けば何を当たり前と一笑に付される事さえ書かなければならない程に何かに対して憤っている。

 

「経済的に自立できない女性は、精神的にも自立できない。」これが本当かどうかは疑問だ。この対偶は本当に成り立つのか。逆や裏はどうか。世界40億人の女性たちの全てに当てはまる真理なのか。それとも単なる自分の信念か。

 

「金と自由を得るために勉強してきた」「感謝するべきは自分」彼女は大学で友人と呼べる人が得られなかったのか。だが、そもそもなぜ謝辞の場では感謝をしなければならないのか、という話である。

 

それなら話が最初に戻って単純になる。感謝を強要してくるのは嫌だと最初に書いておけばいい。謝辞だからといって誰かに感謝を述べる必要も涙を誘う必要もない。なんなら高揚も寂寥も必要ない。謝辞というものに勝手に偏見を抱いていただけという話になる。

 

そしてこの謝辞は、感謝する対象を変えただけに過ぎぬ。構造的にはそのフレームから抜け出していない。思想的構造からすればベクトルをくるっと回したに過ぎない。謝辞は別に感謝を述べる強制ではない。祝辞に祝う必要はない。では何のために言葉を発しようか。

 

これは宣戦布告だろう。自分の実績だけを頼みにこれからも戦う事を誓っている。だから「素晴らしい学績を納めたので」「権利があった」「大した仕事もせずに、自分の権利」を「主張する人間とは違う。」

 

それでは学業を修めていない人には権利がない事になってしまう。なぜ権利という概念が必要なのか。権利は実績によって決まるものか。それでは選民思想に陥るまで1mmもない。人間はすべて実績で並べればいい。社会の底辺の人は権利もなく従え、そういう思想に落ち着いてしまう。

 

「新しいことは自分の無能さを露呈する」若い時は全ての人が無能に見える。そうでなくてはならない。先人たちがやっている事は既得権益を打破できずに右往左往しているだけである。だからこうすれば解決するのにと考えて当然である。

 

たかが謝辞を自分に向けるだけなら権利や言論の自由を持ち出すまでもない。どうぞ、どうぞである。別に変でもおかしくもない。真っ当な祝辞となろう。我々の社会はそこまで偏屈でも偏狭でもないはずである。祝辞でナチス賛歌でも始めるのなら、それこそ相当の「言論の自由」を大学で学びかなりの理論武装しなくてはならないだろうが。

 

 

たかが大学である。千年先まで残るような解法を入試試験に書いた所で100点以上の点数は与えられない構造をもつ組織である。そういう人物を不合格にしても不思議のない世界である。

 

所詮、東京大学京都大学を頂点とした階層構造の中で、生徒を順番にスクリーニングする機構に過ぎない。その範囲を超えた尖り方をした人間が入学できるような機関ではない。入学者が尖がると言ってもたかが程度は知れているのである。何をした所でどうせ最後は学歴と学力だけで相手を評価し始める。

 

本当に優れた人はテンプレートを使う。こんな所で摩擦を起こす価値を見ない。自分の至らなさを隠すのにもテンプレートは便利だ。本当の策士というのはそう動く。

卒業生代表・松田彩音

 新学部の一期生として満開の桜に迎えられた2016年春、入学式では学習院長の国際社会科学部に対する期待をひしひしと感じながら、私たちは大学生活をスタートさせました。


  国際社会科学部の特徴である海外研修では、語学学習のみならず幅広い経験を積むことができました。世界中から帰ってきた同級生たちと各々の経験を語り合ったことも良い思い出です。そしてこの研修の成功には、研修先の拡大に尽力して下さった先生方、単位交換や奨学金などの制度を整え運用して下さった職員の方々のお力添えが不可欠でした。新学部という、全てが第一例になる環境であるにも関わらず、充実した大学生活を提供して下さった皆様方に、心より感謝申し上げます。

 

  他にもお礼を申し上げたい事柄は沢山ありますが、国際社会科学部の益々の発展を祈念いたしまして、感謝のご挨拶とさせて頂きます。今後も多くの学生が、国際社会科学部で生き生きと学生生活を送れるよう願っております。

 

まるで私が間抜けに見えるじゃない、と当人は思っているかも知れない。だが、本当にクレバーなのは彼女の方であろう。

 

 片側にユニークなものが存在するなら比較対象としての模範解答が必要だ。それをいっちょ書いてやろうじゃないか。

 

祝辞で自分を表現してもいいし、しなくてもいい。東京大学の学生と比べて京都大学の学生がユニークなのは、少々アート気取りに過ぎない。その程度の行動で、1000字程度の祝辞で人間が分かってたまるか。短歌じゃないんだ。

 

これらの祝辞が示すものは、言葉だけでは決して評価できない彼/彼女たちの中にある何か、見つけなければならない宝石たち、巧みに隠し見せようとしない何か、を突き付けられているのはこちらの側である、という事だ。

 

ようこそ大人の社会へなどと気取っている場合ではない。彼/彼女たちは本気で寝首を掻く気で向かってくる。これをまず返り討ちにできるかどうかの戦いである。四月とはそういう季節ではないか。

 

学部長の祝辞は送る側だから、最後にこれだけは伝えたいという思索の遍歴が見えるようで、何度も推敲したのかなという内容はとても平凡である。こういう人の元でこそ生徒はのびのびと学術の芽を伸ばせるんじゃないか。

 

 学部長・乾友彦

 卒業おめでとうございます。卒業式で皆さんとお会いしてお話しできるのを楽しみにしていたのですが、新型コロナウィルス感染症の影響で中止になってしまったことは本当に残念です。学部のウェブページを借りて、学部の教職員を代表してお祝いの言葉を述べたいと思います。


 第1期生の皆さんは評価の未知数である国際社会科学部に入学し、先輩のサポートもなく、教員も学部運営に不慣れのなか、不安を感じたり、不満を持ったりすることも多かったことと思います。その中で、私達教職員に対して批判や改善意見を忌憚なく提言して下さったことが学部運営の改善に大きく寄与しました。次の4年間は「国際社会科学部バージョン2」として、4月から新たなスタートを切ります。もちろん、今後も一層のバージョンアップを図っていく所存です。


 これからの皆さんに期待することは、健全な批判精神を失って欲しくないことです。私達が最も注力した教育は、課題を発見し、その原因を考察する能力の養成です。これからの社会は経済社会のグローバル化、データ分析等の技術の高度化が進み、今までとは大きく異なる問題や解決策が求められています。その際は従来と異なるアイデアを持って分析し、解決策を考える姿勢が求められます。


是非、既存の概念に囚われることなく、ゼロから考え直し、全く新しいアイデアを社会に提案して下さい。皆様の今後一層のご活躍を期待しています。