宮崎駿さん企画の新作長編アニメ、NHKが今冬に放送へ

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プロデューサー:鈴木敏夫 コメント

コロナの後、世界はどうなるのか? それが現在、いろんな人の一番大きな関心事です。
映画やテレビだって、それを避けて通ることは出来ません。
『アーヤ』は、コロナ後に堪えられる作品なのか? ラッシュを見ながら、ぼくは何度も考えました。
そして、この作品の大きな特徴は、アーヤの賢さだと気づきました。
賢ささえあれば、どんな時代も乗り越えられる。そう思ったとき、安堵を覚えました。
長くつ下のピッピ』が世界一強い女の子なら、『アーヤ』は世界一賢い女の子の物語です。
憎たらしいけど、何故か可愛いアーヤ。いろんな人に愛されることを願っています。
ちなみに、アーヤは誰かに似ていると思ったら、この作品の監督である吾朗君そのものでした。
それを指摘すると、吾朗君は照れ臭そうに、はにかんでいました。 

 

人間の賢さは嫌味である。だから、物語は常に賢い人が苦境に立つ様に描いてきた。千夜一夜物語がその典型であろう。賢い女性と言う時、この物語の語り部シェヘラザードとドゥンヤザードを忘却するなどあり得ない。

 

古事記に描かれた物語の多くは騙し討ちと計略であるが、その賢さに人々が胸躍らせるのも、彼/彼女らが不利な側に立つからだ。こうして、強いものを打ち倒す物語は、世界中のどの神話にも物語にもみられる。

 

かように賢さというものは、警戒されてきた。苦境という場面設定はその証拠と見做す事ができる。だから、神というより上位の賢者、強者が存在しなければ、人間は王を認める事が出来なかったであろう。人はどれだけ徳を積もうが妬み嫉みから逃れるものではない。如何に堯舜が賢人だとは言え、彼らの評価がその賢さではなく、その徳の高さに求めた事は、中国の太古の人々が研究した末に結論として極まっている。

 

賢い悪王は手に負えない、ローマは長い歴史の中でそれを証明しようとしてきた。そして、愚かな王は更に手に負えないという結論を得る。しかしカエサルが暗殺されたのは、彼の賢さが理由であろう。彼が賢くなければ、殺されるような実績は残せなかったはずで、一人の兵士として軍に従事し、戦場で朽ち果てたろう。つまり賢さには運も必要だったはずだ。

 

賢いとは、人に先んじて資産を奪うという意味である。コロナ後であろうが前であろうが、21世紀はそういう時代である。「どんな時代でも乗り越えられる」は、だれひとり見捨てずに、という意味ではない。

 

よって、この場面の賢さは、徳なりなんらりの拘束があるという条件付きになる。だから賢さだけが時代を作ったのか、恐らく違う。賢さが歴史を進める原動力であったか、それだけでは足りない。

 

戦争と平和」を読むものは、最後のエピローグにおいてトルストイの考えをトレースしながらも、歴史とは何かという事について考えざるを得ない。自由と必然についての彼の考察が、歴史という正体に迫り、しかし、打ち砕かれるかのような錯覚を思いながらも、深く感じいらずにはいられない。

 

ナポレオンがその聡明さによって世界を手中に収めたはずなのに、全く同じ人物が、全く同じ聡明さによって破滅への道を突き進む。それを脳腫瘍や、加齢による前頭葉の劣化に理由を求める事も可能であろう。人はどこかでそれまで蓄積してきただけでものを考えるようになる。それを使い果たすまで。

 

当人は時代の先端を取り込んでいるつもりでも、それを処理するアルゴリズムが昔のままなら、必要な情報は捨て、重要でない情報に注目する事も頻発する。最新データを取り込んでいるから安心していい訳ではない。情報処理が昔のままなら、恐らく、いつもと変わらない結論を得るだけであろう。そしてその結果に安堵する。

 

人も年を取るにつれて、考え方が古いと周囲から言われるようになるはずだ。何も変わってないと言われる。いつも同じことしか語らないと言われるようになる。春木屋理論によれば、いつもと同じで変わっていないと感動させるためには、常に変わり続ける必要があるそうである。

 

人々は変わる、時代も変わる。その中で同じ場所に、まるで北極星のように存在するためには、自分自身の位置も変えていかないと不可能だ。その証拠に2千年もすればケフェウス座ガンマが北極星になる。

 

ヒットラーも聡明であっただろう。だからあれだけの地位を手にいれたのだ。もう一度やってもそう出来るかは不明である。数百回のたった一度だけがこの世界で起きた。その結果がこれだ。異なる次元のヒットラーはただの絵かきであったり、優秀な曹長で注目さえされなかったかも知れない。

 

彼がアウシュビッツをしなければ、後世の評価は大きく変わっていただろう。だが、それは、現在の右傾化を更に激化させていたかも知れないし、あれだけの事をしたからこそ冷戦は戦争を起こさずに終わったのかも知れない。イスラエルナチスの正当な後継者としてパレスチナに対して絶滅戦を仕掛ける事はなかったかも知れない。またはもっと過激であった可能性も否定できない。歴史の if を語るのは無意味だが、その無意味にさえ耐えられないような論説は強靭とは言えない。

 

しかし、今も宮﨑駿の名を冠さなければ作品を語れないようではマズい。彼は彼でいま別の作品と格闘中であろう。これは誰が企画しようが宮﨑吾朗の作品である。それにも関わらず、こういう形でしか記事を書けない記者というのは、何も変わっていない典型だろう。

 

朝日新聞のような比較的恵まれた人たち、この危機においても、特に危機感を持たずに過ごせた人たちは、変わる切っ掛けが得にくいだろうか。多くの人は、それでもこれが変わる切っ掛けになると直感しているものである。

 

でも変わるべきであるという感覚と、では何をどう変えるべきかの間には大きな河が流れていて、誰もが渡れるものではない。恐らく、誠実に取り組む事だけが、例え河を渡れないにしても、そこに橋を架ける手助けになるだろうと信じている。誠実に勝る賢さはない、というのもまた人間が歴史から見いだした真実である。しかし、現代はそれをないがしろにする時代になっている。