新垣結衣、32歳の誕生日! ガッキーのスマイルショット公開

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もう32。その道に10年以上、第一線で活躍してきたのだから、彼女は幾度も分岐点を通過してきた。若い時に活躍した女優の30代以降の身の処し方は興味深い。もちろん、男性だった同様である。若い時分に活躍した人で、後年まで生き残れる人はぐっとすくない。60歳以降でも主役も張れる役者はいる。だが、そういう場所が少ない。舞台を別にすれば、老年の人が主人公という脚本そのものが少ないはずである。ざっと思い返しても NEW TRICKS、Inspector George Gently、Jesse Stone とかだろうか。

 

30代は、俳優にとっては曲がり角のはずである。別に経験者でなくとも風姿花伝にそう書かれているから知っている。

歳盛りに向か ふ芸能の生ずるところなり。
やがて花の失するをも知らず。
このころの能、盛りの極めなり。
上るは三十四五までのころ、下るは四十以来なり。
このころまで失せざらん花こそ、真の花にてはあるべけれ。
老木になるまで、花は散らで残りしなり。 

 

世阿弥老が語るのを待つまでもなく、20世紀を彩った数々の名優たちに触れるにつれ、年齢と演技の間にあるものに思い至らないなどありえない。昨日まで咲き誇っていた花が、不倫という嵐で散ってゆく様は政府が苦境に立つ度に突発的に発生してきたのである。

 

「いま、政府の評判が悪い。どうか君に骨を折ってもらいたい。」
「か、家族を捨てろという話しですか。」
「君では一生行けないニューヨークの名店の予約がここにあるのだが。」
「善処します。」

 

新垣結衣の面白さは、何度もチャンレンジしてきた事だ。自分の演技の幅を広げようと様々な役柄に挑戦してきた。そしてその悉くに失敗してきた。その軌跡が素晴らしい。

 

可愛い以外の評価を彼女ほど欲している人はいないだろう、そして彼女ほど、それが叶わない人もいないだろう。86以降の女優世代には長澤まさみ石原さとみがいる。この三人の立ち位置は比較対象として面白い。

 

それぞれ、コミカルなCMにもよく見る。そのコミカルさに、彼女らの演劇論が突き詰められているような気がする。キンチョールのシュールさ漂う長澤まさみ、金麦の溌溂的な挑発の石原さとみ、そしてGMOのプライベート感を全面にだす新垣結衣

 

この中で、長澤まさみが様々なキャラクターに対応できる演技の幅広さを持つ、石原さとみは挑発的な役柄という偏狭さはあるが年代を問わない強みがある。ここで、新垣結衣だけが、プライベート感というある意味、最強にして最も難しい自然派とでも呼べる演技力で勝負している。しかも、このプライベート感は、どうしても「かわいさ」によって支えられている。

 

言い換えるなら「初々しさ」が彼女の現状なのだ。だから年代を問う。どの年代にももちろん初々しさはある。90になってもそういう人はいる。しかし、ステレオタイプなドラマでは、そういうものは求められていない。

 

彼女にだけ、実はある種の狂気が潜んでいるように思うのだが、それを全面に出す企画は未だない。また彼女にそれに耐えられる演技力がない。それは踏ん張っている時の顔、頑張っている時の顔が、いまだ「幼稚」なままだからだ。

 

彼女だけが、演技にネオテニーが潜んでいる。だから、例えば多重人格の犯人に良くある子供の人格なんかは上手く演技できそうである。しかし、そういう役をする俳優は、基本的に上手い俳優でなければ無理だ。

 

だから最初に登場した時点で犯人だろうと予測がつく。これは仕方がないし、そこを楽しむものだし、脚本家も演出家もそこを裏切ろうと工夫を凝らす。日本のテレビマンでは想像もできないレベルである。

 

彼女の可能性には追い続ける楽しさがある。恐らく、印象に残る作品なら彼女が一番多いだろう。所が記憶には残らない。そういう点も面白い。彼女は明らかな失敗作も沢山生み出してきた。そして、おそらく代表作がない。どれも他からの追随を許さないかわいさだが、このひとつという作品がない。空飛ぶ広報室の彼女も素敵だったが、この作品で最高なのはF15である。

 

どれもかわいい。ポッキーのくりくりもいいし、チキンラーメンのずぼらさもいい、雪肌精も光り輝いているが、かわいさの極致は逃げ恥のエンディングだろう。