「AIを過大評価する一方で、天才のひらめき軽視しすぎでは」ひふみんのツイートに共感と称賛

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人間の脳は、効率化の塊だから、物事を少しでも処理しない方を優先する。不要と必要の判断でさえ莫大になれば足枷になる。よって、不要とするためには、最初から範囲に含めない事が肝要と思われる。

 

なぜそのような仕組みになったかと言えば、基本的にクロック数が小さいからだろう。原理的にパワーを使った大量処理には不向きである、その方式では直ぐに伸びしろがなくなる、そういう読み筋が進化の過程にあったとは思えないが、そういう方針を取る事が今では有利に働いている。

 

豹の牙に襲われている時に必要な情報の中に家族の顔はない。重要なのは爪の軌道と自分の位置である。その次、その次という先を読み切る能力である。そうしなければ、悲しくとも餌になってしまう。

 

その効率は我々の錯視も生む。錯視で誤解する不利益よりも、錯視の原因となる情報処理の向上が生存に有利だった、または必須であったと考えるのが妥当だろう。

 

いずれにせよ、他の棋士が不要とする選択肢を不要として捨てていなかった点が凄い。一般的にそんな手まで読むならば、読まなくていい範囲が莫大な対象になる。そんな可能性まで考慮していては、他の手を深く読む時間がなくなってしまう。

 

マチュアは読む必要のない手まで読もうとする、初心者は一目でクズ手と分かる筋まで検討しなければならない。読むリソースに上限があるから、あっという間にリソースを食い尽くす(疲れる)、その結果、何をどうすれば良いか分からない、が結論になる。

 

もちろんプロだって分からないが結論になるのだが、同じ結論でも探索した足跡が全く違う。そりゃプロの方が先の先の先まで読んだ上で良く分からないと言っているのだ。疲れるまでの時間が違う。つまり、疲れにくいように鍛えてきたのがプロというものである。

 

という事はこの手の他、数手だけを彼は捨てていなかったと見做すべきで、彼が見捨てない手の数は他の棋士よりも多いはずという事になる。

 

といってもAIから見れば、どちらも浅瀬でぱちゃぱちゃと遊んでいるようなもので、あなた方が素潜りの記録を争っている間に、私はバチスカーフになっていましたよ(ニヤリ)と笑うんだろう。そういえば中国が一万メートル級の潜水艇を開発した。次世代しんかいはどうするのだろう。

 

多くの棋士が考えもしない、最初から考える事を放棄した手にも宝物が埋まっている。それを見つけたという点で、これは彼の能力の問題ではなく、彼の将棋への愛が深いと呼ぶべきか。

 

AIが六億手まで試さないと候補値として挙がらなかった手を彼が見つけたという話を凄いと持ち上げるのは、AIと人間が全く異なる方式を採用しているだけの話しだし、車と船、どっちが早いかとか、ボクシングとレスリング、どっちが強いかという話と同じである。

 

少なくとも人間のスペックはもう数十万年変わっていない。一方でAIのスペックはままだ途上にある。そのうち、諸元をどれだけ向上しても機能が頭打ちする可能性がある。その時点でAIも伸び悩みする可能性はある。それ以上先は何兆手読んでも結論が変わらないという状況である。しかし、いずれにしても遥かに人間を凌駕した後の話のはずだ。

 

つまりAIに匹敵したなど、何も驚くに値しない。こんな事を凄いと驚いていては直ぐに将棋も囲碁も見捨てられる。AIを使って解説するのが当たり前になり、将棋や囲碁が強いとはAIとの一致率が高い事である、そんな風潮さえ生まれつつある。それが囲碁将棋の見どころのひとつになりつつある。

 

だが、そんなことで驚愕できるのはAIがまだ黎明期だからに過ぎない。車と馬、どっちが早いかと競争できていた時代と同じなのである。現在の車を持ち出して、馬とどっちが早いかなどと語る人はいまい。

 

だからといって馬が廃れたという話もない。農耕や移動に使用される馬は減ったであろうが、それ以外の所で(悲しい話もあるのだが)残っている。

 

つまり囲碁にしろ、将棋にしろ、どうやって観客を集客するのか、その観客の質はどのように変わってゆくかという結論はどの時代も変わらない。こんなのオリンピック、ゴルフ、野球、バスケットボーㇽなどと同じだ。ゴルフなど一番最初に機械に負かされる競技であろう。100m走やマラソンなどは既に機械が相手できる競技じゃない。

 

体操競技ってすごい、鉄棒にぶら下がるまでしかできないよと驚愕する人もいれば、あの10ミリ秒の中であんな動きが出来るのかという瞬間まで見抜く人もいる。楽しみ方は其々だが、面白さは一通りではない事が肝要だ。勝った、負けただけでは面白みに幅が出ない。

 

観客にも、アマチュアとして手筋がよく分かっていて面白さを楽しむ人と、素人で手筋も分からないが、それでも面白いという人がいる。観る将の拡大は重要で、そういう人を育てるのに、AIに勝ったから凄いでは、先がないという話だ。

 

勝負の中でのひるんだ手、恐怖の中でも背いっぱいに突っ込んだ手、慢心になった手、奢りの手、そういう感情の起伏が見えなければ面白みもない。我々はどう打ち勝つかを観たい所がある。すると、相手が人間でなければこれは成立しない。

 

おそらく「芸術」と呼びたい理由が彼らにはある。こういう所は、最前線にいるプロの人でなければどうしても解説できない。プロでも今回の手を語り尽くせる人は少ないだろう。当人だって、どうしてこの手、と言われてもどうしてこの手を脳が浮かび上がらせたかを説明できるはずがない。

 

僕たちはこういう人を見て自分の勝負勘を鍛えようとする。成功の秘訣はなんだろうかと探す。たぶん、これが人間が世界中にいる理由なんだろう。

 

あの石油を手に入れる事が、あの鉱山を手に入れる事が、成功の秘訣である、そう思い銃を手にしてTOYOTAに乗り込む人もいる。この感動を誰かに伝えたいと映画を作る人、小説を書く人もいる。

 

この一手凄さを思う存分語ってもらいたい。