AI時代の将棋界、藤井聡太七段の何がすごい? 「他の棋士とは違う差」佐藤天彦九段が解説

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AIによる研究が全盛時代を迎えています。以前は、定跡をきっちり研究していれば、「あとは地力でなんとかなる」という世界でした。今は、場合によっては「詰み」となる所まで研究されているような形がたくさん出てきた。そうすると、深いところまで対応するために、棋士たちは圧倒的に研究量を増やさなければならない。棋士は研究用に非常に強いソフトを軒並み持っていますから、ソフト研究の軍拡競争みたいなものです。 

 

将棋の通った道を囲碁が後から通るような所があって、しかし、これを読むと、まるでプロ棋士とはAIの代理かというような恐ろしさを感じる。AIの手を記憶するだけのマシーンでは棋士のイメージが崩れる。しかし、将棋とはどれだけAIを正確にトレースできるかに掛かっているゲームである、そういう結論になる。

 

これは恐らく過渡期の視線であろう。それは郵便の歴史を辿れば分かるのである。郵便の最初期に著名なのが紀元前490のエウクレスである。マラトンの戦場からアテナイまで伝令した。走れメロスもまた郵便史に残る傑作である。運ぶものが信頼であるという点が異色である。

 

郵便の歴史とは速度と確実性の追求であって様々な方法が時代毎の工夫されてきた。郵便とは通信の一部と考えて差し支えない。そこでは次の要件が列挙される。

  1. 運ばれるもの(郵便物)
  2. 運ぶもの(郵便屋)
  3. 伝達経路(ポスト)

 

速度は、最終的に平均伝達速度が肝になる。

  • 速度は、重さと抵抗によって決まる。
  • 重さはモノの属性で、抵抗は伝達経路の属性である。
  • この抵抗を打ち消すのが運ぶものの諸元である。
  • 伝達が完了する時間は、運ぶものの量に依存する(他の条件が一定の場合)。

 

これらから、運ぶものの安全性を高めるために配達者は武装していたし暗号も考案された。シーザー暗号や踊り人形などが有名である。今は公開鍵暗号である。

 

抵抗を減らすためにローマは道を舗装した。江戸時代の道が舗装されなかった理由はなんだろう。安価な舗装材がなかった、良質な石がなかった、雨が降る、歩きには実は舗装しない方が良い、軍事的理由(進軍を遅くする)、などが考えられるが本当はなんだろう。

 

運ぶものは人間の徒歩から始まった。生物は疲労するから、これへの対策として都市間をリレーして伝達する方式が考案された。これは鳥や馬でも同じである。リレーするとヒューマンエラーが増大するから、都市間同士の信頼性が高くなければ使えなかったはずである。

 

しかし、この中間場所ごとに集積し、再配達する仕組みは、人間が生み出した代表的な機構であって、郵便は局毎に集めて、配達所で仕分けして、各拠点に配達する、そしてまた仕分けして配達するという仕組みである。水道だって電気だって似たようなものである。Windowsだってメッセージを集積して配布する仕組みを持っている。

 

機械が発達すると、機械にとっての第一命題が速度だから、放っておいても速度は勝手に向上する。それにともない伝達時間も早くなる、今では遅いけど安い船便、早いけど高い航空便になっている。

 

この違いが生まれたのは、全体量が莫大になって航空便だけでは捌けないからであって、これを供給量に対する費用によって制限し最適値に落ち着くのである。

 

また内容によってはモノでなくてよい。つまり電信電話の発明である。この頃に発見された光速を超えられないとする制限がSF作家の頭を今も捻り上げている。

 

いずれにせよ、今では飛脚はお呼びでない。トラックの荷台で走るくらいである。

 

つまり、将棋にとって運ばれるものが棋譜、運ぶものがAIや人間、伝達経路が将棋盤と定義すれば、AIは、運ぶものの問題であるという事になる。

 

AIの方が人間より早い、これは今後も開く一方で短くなる事はない。ラマヌジャンみたいな人くらいしか、対抗できそうにない。

 

AIと言えども万能ではないし、現在のAIは所詮人間より少し優れている程度である。だから外れ値には弱いと言われたりもする。その外れ値に注目できるのが人間だと慢心している場合ではない、そんなものを見落とさなくなるのは時間の問題である。

 

AIを人間がチューニングしている間はまだしも、AIがAIをチューニングするようになれば爆発的な発展を見る。爆発的増加を我々が思い知るために今の時期に神様がパンデミックを起こしたのではないかと思う位だ。

 

いずれ原チャリにも勝てない速度でしか走れない金メダリストが出現するように将棋棋士もなるはずである。学術的に将棋は最終的解決をするかという事と、人間だけの能力でどこまでその道を極められるかという事と、人間同士が争うゲームの場の提供という事は、別々の発展を見せるはずである。

 

これは将棋だけの話ではない。カーレースでも人間よりもAIの方が早くなる、バイクレースでさえそうなる、野球だってロボットの方が能力が高い時代は来る。

 

これを敷衍すれば、兵士だって人間よりも機械の方が優れているという時代が来るのは当然で、そもそも歩兵は戦場での決定的役割をしなくなっている。

 

人間は戦場の主役ではない。それはWW2の頃に証明された事案である。例えば特攻隊などは飛行機が主で人間が副である、その証拠に技術の発展で人間をコンピュータに置き換えたミサイルが今では戦場の主役である。

 

しかし、今も戦後の統治は人間が主役である。そして人間を相手にする以上、主役は人間という状況は続きそうである。そうは言っても人間の代わりをするロボット、アイボや介護用など、というのが出現していて、全面的置換は無理としても一部肩代わりは起きている現象である。

 

将棋の楽しみとは、囲碁も全く同様だが、棋士同士の対決の楽しみの他に、解説の楽しみがある、今では解説の一部にAIとの一致率や変動がなければ詰まらないくらいである。更には業界としての楽しみがある。そこにある人間関係(それを極めたひとつがプロレス)、ひとりの人間の人生的なものを追っかける楽しみ、これは詰まり、世阿弥風姿花伝ではないが、子供の時分から、若さ、熟成期を通して、円熟し、遂に老いに至る、そういうものを見る楽しみである。

 

あれだけ覇気のあった棋士が勝てなくなる、何故か、山下敬吾が勝てない、というのは決して他人事ではない。だから同世代というものが生まれてくるわけだし、観劇する楽しみでもあるのだ。それは野球などのスポーツ観戦も同じだろう。単に勝ち負けだけの問題ではない、誰もがそこで勝負勘を磨こうとしているのだ。

 

勝負という舞台を中心に、我々の知らない部分も含めてとても沢山の人間が支えている。それを知る事で面白みが増すのが面白い。

 

さてさて、将棋が先か、人間が先か。