国鉄を分割した時、東、東海、西以外の赤字は確実であった。東は首都圏という大量の乗降者、東海は大本命の新幹線、西は大阪圏を当てにした。
そうでない北海道、四国、九州、(貨物は黒字化を達成)の赤字は確定している。問題は、JRグループとして補填できる範囲で収まるかであって、コロナパンデミックによる主要三社の赤字化は、恐らく2年以上は耐えられない。
鉄道会社のスリム化とは、鉄道事業の縮小と、鉄道以外の事業進出である。特に鉄道が土地と土地を繋げる事業である以上、不動産と密接に結びつく。利便性がある場所には人が集まる。人が集まれば、鉄道を使用する人が増加する。
これに対して、最大のライバルが車や飛行機ではなく、まさかインターネットとは思わなかった。鉄道に勝ち目があるのは本物に触れる部分だけであり、そのリアリティさえ諦めれば、ネット上で訪問して楽しむ観光が日常化できる。
というか訪問してお土産をネットで購入して満足感が高ければ実際に訪れるような形に急速に変わるだろう。この短絡的でステレオタイプな観光地事業がこの先の数年で一般的になるだろう。疑似体験で良かったら本当に言ってみる、これはいいお土産を売るにはいい方法だと思う。リモートワークによって半分出勤すればいい状況では単純に見積もっても売り上げ半分である。
そういう鉄道を取り囲む負の環境で、どうしても必要だと裁判まで起こすのは本当に有難い話である。だが問題はコストである。すると主題は、権利とコストの対立という事になる。一般的な権利の実現にはどれもコストがかかる。だから主だった権利は国家が保証する仕組みで実現している。
だから私企業が権利の担い手になるというのは、普通は危険なのである。企業が倒産したら乃ち権利が吹っ跳ぶからだ。そこをどう担保するかであるが、一番の問題は駅の無人駅であって、駅か路線ごと廃止すれば問題は起きなかったはずである。
駅がなくなれば、あらゆる論点の前提がなくなる。駅があるから権利云々という話になる。都市圏にいれば、鉄道など10分も待っていれば来る、中都市圏なら30分、地方にいけば二時間、もっとも少ない場所では一日に6便くらいか。それが限界であろう。
すると、提訴したのが車椅子の方だから移動の権利という話を全面に打ち出した。健常者は不便であるが移動の自由が制限されたとまでは言えない。関東では起きて適当に言っても電車に乗れる、田舎なら駅で二時間待ちもざらである。しかし一日に数便でも権利の侵害とまでは言われない。でも同一条件でないのは明らかである。
権利の侵害を訴えるには鉄道しかないという状況が必要で、それは勿論、鉄道ほど安い賃金では同じ事が実現出来ないという事になる。つまり、無人駅もコストなら、提訴した人たちにも最終的にコストの問題がある。鉄道と同じ価格でタクシーが使えるならきっとそっちを選ぶはずなのである。
駅の廃止は移動の権利を奪った事になるのか。もちろん、ならないはずである。駅があるから無人駅が問題になるのであって、なければ移動の手段に鉄道は最初から含まれない。含まれない以上、移動の自由の選択肢から削除される。
それが正しい方法かどうかは知らないが、争えばそういう結論に至る。だから、お互いに歩み寄る方がよい。すると車椅子で殆ど補助のいらない乗降方法を確立するしかなさそうである。もちろん、それにもコストが必要である。
理想を言えば、客がボランティア的に協力してくれればいいのだろうが、いつも誰かが乗車しているとは限らないし、無人駅にそうそう都合のよい人がいるとも思えない。
人も足らない、金も足らない、設備も足らない。じゃあどうするのかと問えば今あるもので何とかやり繰りするしかない、という結論になる。ちょっと知恵がある人は、足らぬ足らぬは工夫が足らぬと知ったかぶりをするだろうし、2+2=80とか言い出す人も現れるだろう。
つまり、ちいっとも変っていないのである。だが、変わっていないだけで、だったらどうするとも言えない。バリアフリーは目指すべき社会の姿であるが、どれくらいのコストを必要とするかである。あらゆる事がコストベースで判断されるようになってきたのは、余裕がなくなった証拠か、今まで溜め込んでいたものを全て吐き出してしまった事を意味する。
JR九州という企業でさえこのような状況にあるのである。地方経済が衰退する事は20年前から既に指摘されてきた。しかし、その時に具体的に何が起きるかは誰も言ってこなかった。その具体性を描けなかった事例がこうして現実のニュースになる。
我々はコストなしに権利を考える事はもうできない世界にいるようである。未来の社会では権利は購入するものに変わっているだろう。ちょうど itunes のカードを買うように。