国内死者5000人超=2週間で1000人増加―新型コロナ

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状況は既に感染者数から重傷者数へとシフトしており、死亡者は状況を把握する目安になっている。冬になるまでの緩やかな状況に対して、冬における被害の拡大は、当初から予想可能、毎年、風邪やインフルエンザが冬に増加する経験から、であったが、さてでは被害の見積もりはと聞かれれば専門家でも見通しは立たないだろう。

 

日常からそのような状況は想定内だから、一般的にはA,B,Cの予測を立てて、期待しながらも準備するわけである。保険というもので誰もが知っているはずで、パンデミックの危険度は、さて、保険にしたらどれくらいの商品になるだろうか。それくらいの情報は国民の間で共通認識として持っていたいものである。

 

死者の増加を見る上でも要因は幾つも考えられ、単に増えた減ったで喜んでいいのは中学二年生までと思う。それ以上になれば、どういう理由が要因として起きているのか考えたいはずである。そのうちの何がエッジとして効いているのか、知りたい話は沢山あるはずだ。

 

大学受験を控える受験生ともなれば生物学を学び、免疫システムやウィルスの戦略も学習しており、興味は尽きないであろう。歴史を学ぶものは、疫病が何度も世界を変えてきた事件を連想するはずである。ただ数学を学ぶものだけは、不思議そうな顔をして新聞を読むのみか。

 

この高齢者を直撃する病は誰に聞いても分からない事だらけである。アメリカの死亡者は既に南北戦争の死者数(50~60万)に迫っている。南北戦争というのはアメリカでもっとも被害の大きい戦争として知られている。

 

我が日本は若い人をミサイルを制御するコンピュータチップの代わりにして迎え撃ったのであるが実に300万の死者を出した。アメリカの戦死者は30万人。これヨーロッパ戦線も含まれる。10倍返しの絶望である。

 

1918パンデミックでは、アメリカでは50万、日本は40万の被害と見積もられている。しかも若年層で起きた。それと比べるといかにもこの数値は不思議に見える。アメリカが百年前と同じ程度の死亡者であるなら、世界的に同じ比率でないとおかしい。しかし、実際は日本との比率は百倍である。

 

直近の日本での死亡者の伸び率に注目するなら感染者との関連も見ておく必要があり、その割合に変化があるなら、夏とは違う形相を見せ始めている事を考慮すべきで、その第一はウィルス変異、第二が冬による免疫低下、第三が医療崩壊、などを怪訝するが答えはない。受験とは違うのだよ。

 

人類はワクチンこそ超高速に作ったが、重傷者への治療方法はまだ確立できておらず、どうも免疫の暴走が重症を引き起こすのではという話も聞くが、では免疫をどう抑えればいいのか、抑制すればいいのか、そういう話も専門家は議論しているんだろう。

 

疫病後に世界が変わるというのは歴史上、何度も起きているし、それは人が減る事によって生じるパワーバランスの結果、人々の行動上の変化、何よりサバイブした人々の絶望から希望へのパラダイムシフト、これらに伴う過去の刷新という強い衝動などが動機となって、我々は既に次の世界を、つまり、ゼロコロナだの、アフターコロナだの、ウイズコロナだののパワーワードに触れているわけである。

 

その心づもりはある。何か新しいものがなければやってられない。破壊と蕩尽の限りを尽くして焼き払いたくなる過去であろう。だが、その新しい世界とはどのような世界か。その後が決して希望に溢れる世界とは限らない。

 

特に被害が著しいアメリカにとってパンデミックなどどうでもいい分裂が起きている。この経済的な分断、思想的な分断、下手をしたら国家的な分断が、もし、アメリカをして孤立主義に戻らすならば、その時を待っているのが中国であるのは間違いない。

 

中国の野心と野望を信じない人がいないのと同様に、それに対抗できるのがアメリカしかいないのも常識としていいであろう。もしアメリカが違う方を向こうとしているのなら、世界への影響は巨大である。それは壮大な民主主義の社会実験という範囲を超えるかもしれない。一惑星での自治というような話では済まなくなるのである。

 

そして、この重要事にパンデミックは激しい影響を与えそうである。なぜ中国は無傷でいられるのか。ウイルスが国境や県境を超えられないなど、そんな馬鹿な話はないはずなのである。

 

例えば新聞の片隅の昨年の自殺者数を読む。たしか六千人だった。確かにウィルスの死者数は乗数で増加する可能性がある。その起きるか起きないかも分からない恐怖にみなが慎重になっている。

 

その一方で自殺は若い人を直撃する事件である。なぜ高齢者の死亡にはこれだけ熱心なのに、若い人への死亡には無関心なのか。病気は事故で自殺は事件ではないか。どの世界に事件より事故を重視する社会があるか。

 

ところが、この事故は世界中を巻き込んでいるのである。南米ではギャングが自主的に戒厳令をしき、人々の外出を止めようとしているともどこかで読んだ。

 

1918の被害、1700万人~1億人という数値に意味がない事は分かっている。当時の人々と比べれば我々の知識も技術も格段に増加している。そして見えるようになったからこその恐怖がある、という事を我々はまだ知らないでいる。

 

全盲蛇に怖じず、という言葉がある。知らぬが故の怖い者知らずも例えである。だが、羹に懲りて膾を吹くの諺もある。知っているからこその恐怖がある。知らなければ怖くない、知っていると怖くなる、そして、知りすぎればまた怖くなくなる。

 

ならば、怖い時こそが人間の真価が試される時に違いない。正しく怖がるなどしゃらくさいのである。遠くにかすんで実体も分からない巨大な恐怖の前を前にして、立ち向かう必要があるのだ。

 

だから問題はひとつである、どうやって?