「宇宙戦艦ヤマト2205」10月8日に公開決定、新クルー役に畠中祐・岡本信彦ら

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ヤマトという物語が、現実の戦争を通奏低音としているのは確かとしても、その駆動力となったのがガミラスとの冥王星会戦での情け容赦ない無様な迄のしかし細い糸の切れることなく哀切なまでの犠牲を払ってでもなお未来への希望を失わない敗北である事は揺るぎなく、どのような作家であれ、脚本家であれ、このエンジンを失ってヤマトという物語を紡ぐ事はできない。

 

実際に敗北から立ち上がるというテーマはその後もずっとヤマトという物語を支えてきたテンプレートであるし、それが戦後の平和への希求や経済復興とリンクしている事も疑いようがない。戦後生まれのある世代は間違いなくヤマトという物語によって戦後を生きてきたのだし、その中で、我々の国家が誇りある存在である事をこの作品を通じて確認してきたのである。

 

もちろん、この作品がその奥底に抱いている矛盾、平和の希求と現実の戦争、誰一人無駄に散ってはいないにしても、無力にも紛争地帯で命を失った人々へのレクイエムをヤマトという作品は背負っている訳である。

 

しかし、我が国の特徴でもあるだろうが、日本海によって大陸から隔てられている事によって作られた根っからの平和ボケというものは、往々にして作品よりも経済的追求にフォーカスするものである。

 

第二次世界大戦のトレースであるようなガミラスとの互いの命運を賭けた祖国戦争、戦後のアメリカとの同盟を象徴する護衛艦色をまとったアンドロメダの就航と全滅、そういう段階を踏んでヤマトという作品は、幾つものフレームを形成してきた。

 

しかし、脚本家の力量からか、プロデューサーの圧力からか、ヤマトは観客を呼び込むために最初の成功パターンを何度も繰り返す。敗北からの捲土重来、復活の狼煙とそれに伴う犠牲という自家撞着に陥る。愛がなによりも大切だったと叫んだ割りには殺しまくりますなぁという感想に対して2202は波動砲封印というひとつのテーマを掲げたが、脚本家の手になるその物語は陳腐の極みであった。

 

なぜリメークは過去作品をトレースする事でしか作れないのか。ハリウッドのクリエータたちは、ワンダーウーマンだの雲男をリメイクする時に、どうみても色物、どうみてもお遊戯にしかならないデザインを踏襲しながらも、如何に現実とシンクロさせるか、社会、哲学、技術、映像の明度、そういうものを追求し、脚本も映像もそれを実現するために注力した。そして成功している。

 

新たなる旅立ちは、ヤマトという作品の分岐点であり商業主義が悪いとは言わないが、このコンテンツに対してこの程度の殻しか与えられないのかと思わせる作品である。それは人々の期待に対してのみ縋って売り上げを達成した作品である。

 

それでもまだ戦闘シーンに迫力でもあればいいが、誰だこれデザインしたの?と言わざる得ない内容であって、作る以上はアンドロメタを超える敵艦をもってこんかい、それが最低限の礼儀だろうと思わせるものであった。

 

1979年といえば機動戦士ガンダムの放送が始まっている。地球連邦とジオンというこれも如何にも第二次世界大戦に範を取ったような世界観である。実際は米ソ冷戦の影響から日本のクリエーターたちも逃れられるはずがなく、それにしては非常に中立的である点が画期的だったように感じる。

 

敵は本当は敵じゃない、作品内での幾つもの描き方にも係わらず観客はそれを指示した。軍というフレームワークはそれまでの絶対的敵から敵軍という相対的な関係に転換する。しかも、メカニックデザインは敵軍が圧倒的であった。

 

モビルスーツという発明は、宇宙戦艦という存在を傍流に押しのけるのに十分であった。世界は今でもエンタープライズがワープ9で飛び、銀河を航行するのに宇宙船が主役であるにも係わらず、日本では地球圏の近くでちょろちょろとモビルスーツを運搬する物語が中心なのである。

 

これはひとつにオールトの雲を超えるなどまだリアリティがない。我々はまずこの星で決着を付けなければならないという無意識のなせるものであろうか。

 

2022までは良いとしても、それ以降は完全オリジナルな作品が見たかった。しかし、なぜ新たなる旅立ちをリメークするのか。その真意を測りかねる。

 

この後に、1歳児が目の間で18歳になる変態を見るかと思うと気が重くなる。メルモちゃん以来の驚愕か。「ジョミー、大きくなったでしょう、ぼく。ならなくちゃいけなかったんだ」というセリフの悲しさの片鱗さえない、このご都合主義に付き合わなければならないのか。永遠だの完結だの復活だの言葉遊びに付き合うのである(そりゃ付き合うだろうけど)。

 

そんなものを見せられるくらいなら、きちんと20年の歳月を使ってでも50歳を迎えた古代や森を見たかった。そもそも18歳が戦争の中心になるなど中世や明治維新でもなければありえないのである。近代軍はそんなものが入り込む余地はないのである。その程度の発想や機略でどうにかなるような物量での戦争は高度に発展した工業化社会では行わないのである。

 

その程度の覚悟が、さてこの脚本家にはあるか。リメイクでは時間断層という発明を必要とした。それで作品の矛盾に答えようとした作家たちは努力した。だが、ヤマトという作品の本当の矛盾はそんな所にありはしない。