小島瑠璃子がキンタロー。に苦情「ほんと風評被害」

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最初に見たこじるりはさまぁ〜ZOO。まだ高校生の頃だったと思う。瑠璃子の瑠璃は瑠璃色の地球の瑠璃、久宝留理子とは違う人。その頃はなんとも純真そうな一生懸命さのある人だった。そう、あの頃は…

 

彼女の大躍進は、矢口真里の陥落と時期を同じくする。最も使い勝手のよい矢口の喪失は、制作陣にとっては大事件であったろう。何とか助け出せないかと行動した人もいたであろう。それほど彼女が抜けることは衝撃的であったと思われる。

 

空白地帯は、逆に言えば、他のタレントにとって千載一遇のチャンスである。誰もがその席を得ようと飛びついたのは間違いない。

 

女優の主戦場が CM であるように、女性タレントの主戦場は MCアシスタントにある。一部のニュースを除けばMCは依然と男性主導である中で、どうしてもサポート的な役割が求められる。特にバラエティではそうだ。

 

だから、テレビ局はアナウンサーに見た目だけでなく、機転の利く人を採用するようになった、それを最初に積極的に行い成功したのはフジテレビである。

 

編集点という言葉が一般的にも認知されるようになった。テレビはただの垂れ流しではない、きわめて強い恣意的な目途をもって加工された製品である。製作者たちは編集に加わる堕落、誘惑、圧力と懸命に戦っている。これをやったらおしまいだよというクロスアラインを誰もが持って挑んでいる。

 

そういう人たちにとって、矢口真里というタレントは同志と呼べるほどの存在であったと思われる。この人がいると、その後が作りやすい、流れを作ってくれる、撮影すれば終わりではない。そこから始まる仕事がある。それに気づいた人だった。自分の顔を撮っておいてね。これ編集点として使えるでしょう?

 

矢口真里という人は自分でその役割を開拓した人、と言って良かろう。ここに彼女の頭の良さがあって、それがとても重宝された理由であるし、それが反感の強さにも比例してしまった。

 

さて、矢口真里を継ぐもの、それが小島瑠璃子であったと思う。どれだけの勢力争いがあったかは知らないが、彼女は間違いなく勝利した。それでも何も困りはしない。僕が見ないゴールデンタイムなら、幾ら食い散らかしてもらっても構わない。

 

そんな彼女がなんとサイエンスゼロに採用された。NHK教育の女性起用はとにかく素晴らしいが、流石にこれはないよ、と最初は思った。ちょっと勘弁してよ。

 

彼女はゴールデンで培った圧をそのまま発揮した。そ、その光を弱めてくれ、ここでそれをやられると全員が倒れてしまう。

 

ここはサイエンスゼロである。これを見る殆どの人は最新の科学情報であるとか、どっかの大学の研究成果を楽しみたいのである。彼女が幾ら頭がよくても、そういうのを求めているのではない。

 

しかも NHK の番組はアドリブなんざ殆どいらない。あるように見えるのは、そう見えるように仕組んでいるだけである。だからNHKの番組は、逆の言い方をすれば、そこそこの才能があれば、誰でもできる。だから、その人の好さが全面にでやすい。

 

民放での激しい戦いの中では消し飛んでしまうようなささやかな個性でも、十分に堪能できる。それがNHK教育の価値なのである。何人ものアシスタントがここだけで活躍し消えていった。他で見るとしても放送大学くらいである。サイエンスゼロを楽しんでいる人ならば、NHK教育とは有袋類の楽園である、といえば伝わるだろう。

 

そこに、競争の激しい、アフリカか、北米大陸で鍛え抜かれた小島瑠璃子というネコ科最強の肉食獣が渡来してきたのである。南米大陸のティラコスミルスがスミロドンの進出によって絶滅したように このままでは NHK 教育の素敵なタレントたちが絶滅してしまう。

 

しかし、どのような凶暴な生物も、そのままの姿ではいない。斉藤由貴でさえ物理基礎ではとてもよいお母さん役を演じていたではないか。

 

長くその地にいれば、そこに適応した凶暴性に集約するものである。ヒアリがどれだけ他の地域では毒針をもつ凶暴なアリと嫌われようと、南米ではどちらかといえば川岸においやられた弱者である。彼女らの凶暴さも、南米で生き残るための最低限必要なものに過ぎない。

 

彼女たちも競争相手が変われば自然と穏やかになるはずである。進化は余計なものにエネルギーを投入する非効率を許さない。これに反する例題はほとんどが性淘汰に関するものだけである。問題は人間の時間と進化の時間は同じスケールでないという点だけだ。数百、千年くらいは我慢しろ。

 

小島瑠璃子の凶暴さも、NHK教育では次第に抑えられていった。だから、いまは左程、気にならない。少なくとも、悪くないと思う時もある。進行を強く邪魔する圧も少なくなってきた。ま、それでも一回程度は隠しきれない圧が出るので、安心感はない。奈央ちゃんの安心感が懐かしい。でも、辞めるのと若林との噂がリンクしてたのは気にしてる。

 

そんな状況で見たキンタロウの細かすぎてである。こじるりはテレビの向こう側にいる視聴者しか見ていないと語っている人もいた。みんな注目する所は同じ。彼女の存在感がここまで大きくなっている。巨大になれば、嫌な感じが出るのは当然だ。昨日までは可愛いで済んでいた人が、今日はもう遠い所にいる。ずうっと上にいる。広瀬すずちゃんだってその辺は同じ。

 

そこに彼女は自覚か、無自覚か。あれだけの頭の良い人が無自覚とは思えない。だが、google と一緒で evil な人でもない。ではあの彼女の匂いは何だ?人間が示す類型としての善人ぶり。この偽善者めと言いたくなるような気もする。だが、人がいい人であろうとする行為が悪いはずがない。

 

では何だ?この人を嫌いになりたいのに、嫌いになる理由が何もない。理由もなく嫌いと言ったら、こちらが悪人になる。それは嫌だ、だから、みんなが待っている。何を?相手をビートする正当性を。それはもう、事故でも事件でも構わない。正当性という正義、これほど人間を不幸にするものもない。これが大好きな人はたくさんいる。

 

彼女はそういう意味では大衆心理の中で突出した場所に押し出された人だ。いつの間にか、自然とそうなった気がする。これはとても危うい。何かが、彼女を押し上げている。本人さえ自覚のないまま。時計の針は動き始めている。XDayに向けてチクタク。そういう、標的の一人であることは疑いようがない。

 

彼女はこれをどう乗り切ってゆくか。そこで放送されたキンタロー。のモノマネはとても凄いのである。これで笑えた人は彼女が少し許せたはずである。少し好きになった人だっているかもしれない。そういう形でしか彼女を今いる危険な場所から救いだせないのだ。ならば小島瑠璃子を救うキンタロー。は菩薩だ。キンタロー。の笑いは蜘蛛の糸だ。カラマーゾフの兄弟では一本の葱というそうである。

 

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キンタロー。の細かすぎるモノマネ『たぶん嘘をついている時は目を見開く小島瑠璃子