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『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』が日テレで今晩テレビ地上波放送。『閃光のハサウェイ』の公開前にチェック!

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逆襲のシャアである。何かを語ろうとして何もない事に気付いた。昔見た記憶はあるが、その後の記憶がない。最後にガンダムアクシズの片割れを押している映像だけは覚えていた。

 

逆襲のシャアでコアを占めるのはアムロでもシャアでもなくクェスだと思う。彼女の存在がなければ、この作品は余程に違ったものになっていたはずだ。存在意義が全く変わるくらいに。

 

ガンダムでは、規定として存在するガンダムという兵器に、どのように少年少女が関わってゆくかが壮大なモチーフだと思う。どのように出会い、そしてどのようにして立場を選ぶか、それまでの葛藤や苦悩が作品の中心になる。そして決断してからの戦闘、パイロットとしての覚醒、それ故の悲劇が作品を装飾してゆく。

 

そのような大まかな世界線においてもクェスが持ち込んだ様々な悲劇性は異様だと思った。このような脚本を仕上げた時の監督の心理はどういうものであったろうかと想像するが、まぁ内に秘めた心情が分かる訳もない。

 

ただクェスという13歳の少女に様々な事をさせるために、作中に放り込んだ事は間違いないし、シャアとアムロの対立も、それぞれの立ち位置も、クェスの行動が矛盾しないための装置として機動しているように見える。

 

なぜ大人びたアムロと自信喪失のシャアなのか、そこに少年兵として投入されたクェスを使って何が描きたかったのか。その悲劇の向こうに何があるか。それがこの作品の価値のひとつだとは思うが、この不自然な構成に納得できない自分がいる。

 

逆襲のシャアは、不用意に殺し過ぎだ。それがリアリティと観る事も可能と思うが、そういう現実はこの世界だけで十分だ。救いはどこかにあるのか、アクシス落としから救ってみた事はその代償にはなるまい。それを防いだ事は決して死んでいった者たちを慰みはしない。

 

するとこれらの作品群が持つ、不条理だの悲劇だのというどうしようもない運命のような脚本の根底に何があるのだろうか。ガンダムとは寂しさから逃れるための物語なのか。それが監督が見つめてきたものなのであろうか。分からない。

 

もし作画が安彦良和だったならば。もう少し違った見方が出来ただろうか?どうもそういう気にはなれない。強烈な矛盾を孕もうとどうしても監督が描きたかったものは何か、13歳という少女に託して、宇宙にどのような煌めきが必要だったのか。

 

その死を描く事で、世界は何かに満たされたか。本作を最後にシャアは登場しなくなるはずである。リアリティで考えるなら、その後の彼らに人生がない訳がなく、またこの経験こそが彼らの人生にもたらすものは大きいはずである。だのにその人生を描く事はまだ誰の手にもなっていない。

 

そして作品群は、新しいシャアを必要とし、また同じ構成の繰り返しである。誰かが戦争に巻き込まれ、嫉妬や妬みに晒され、寂しさからモビルスーツに乗る。そしてまた誰かが悲劇を演じる。何故か。

 

この作品群が孕む創作の原動力にあるものは何か。とても良く出来た世界観と軍隊が取り込まれたプラットフォーム。どのような作家でもこれを舞台に作品を描く事ができるというパラダイム、そしてスポンサーの強烈な意向。ビジネスとして成立した巨大な世界空間、クトゥルフ神話にも引けを取らない20世紀を代表する物語空間。

 

なぜシャアとアムロは争わなければならなかったのか、二人が生き残り、誰かが死んだ。まるで永遠に終わらないシーシュポスのように、火の鳥の輪廻転生のように、ふたたび同じ悲劇を繰り返す。

 

恐らく、ハサウェイもまた。同じ道を歩む。