日本沈没 #5

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さて、御都合主義である事は物語を詰まらなくする決定的要因ではない。それが証拠に御都合主義の権化のような作品でも面白いものは沢山ある。その代表的なものは、代表的なものは、と思った所ではたと考え込んだ。何があったっけ?

 

確かに何かがあったはずである、その何かを思い出すまでに数日かかって夜更けになる頃ようやくそれは本宮ひろ志の作品群であると明瞭した。それ以外の作家でもいいが世界中にその手の物語は幾らでもある。それは間違いない。

 

ではその御都合主義を覆い隠すまでの面白さはどこにあるのか。その秘密はどこにあるのか。現実にはどのようなドラマも多かれ少なかれ御都合主義である。もしその情報があるなら犯人はそのような行動しない、その情報に従うなら明らかな矛盾がある。犯人が捕まったのは単なる幸運か間抜けではないか、云々。

 

故に世界観を壊さないのは、情報統制が取れているからである。最後まで伏せたままにしてあるからだ。そして隠し続ける意図が製作者側にあり、鑑賞者はそれを知らぬまま物語の起伏を追う。

 

丁度、高くから落下する程、重力の加速度が大きく作用するように、隠された情報はこの高低差の前では無視し得る。そしてその矛盾に気付くのは全てが終わった後である。

 

これだけ苦労して手にいれたぶどうを今さら酸っぱいなどあり得ない。よってこれは美味しいのだ。これが人間の自然である。今更あの面白さを返すなど出来るか、この矛盾は演出の綾である、丸め込まれむのにやぶさかではない。感動の大きさが矛盾を埋め立てるのである。

 

本宮ひろ志の名作と言えば、男一匹ガキ大将であろうか。後から考えれば荒唐無稽であっても、作中では頁をめくる手が止まらない。人間鉄橋、上等である、心頭滅却すれば人はまた鉄より強しである。

 

まだ、生きてる… などは作品のメッセージがあらゆるものを隠す。人の気持ちが力の源である。飛行機ごと突っ込んでも敵艦を沈没させてやる、ミッドウェー海戦前からそういう気持ちで戦っていたゼロの白鷹、暴力さが無縁である良品、おそらく高い支持は得られていないであろう万年雪のみえる家、スポーツを通して雄々しい性愛を描いたさわやか万太郎、どれも素晴らしい作品群である。

 

だが、この作品のリアリティを支えているのは、間違いなく彼/彼女の絵柄であるしネーム構成にある。だから、彼の作品で実写にしても通用するのは俺の空だけのはずなのである。サラリーマン金太郎は、相当に漫画的な描き方をしなければ成立しなかったはずである。ドラマを見ていないから断言は避けるが。

 

後から冷静に振り返れば、その魅力は圧倒的な勝利にある。読んでいる時はそのカタルシスに酔いしれるのだが、よく考えるとそのどれもが圧倒的な資産や生まれ持った肉体というバックボーンに裏付けらえている。

 

もともと持っている側のカタルシスなのである。だのに読んでいる時は努力や挫折や人間性に惹きつけられる、如何。

 

実写になるほどリアリティは難しい。岡目八目、百聞は一見に如かず、映像の力は人間が本来もっている視覚の生理に基づく。故に強力だ。東日本大震災で本当の映像に触れた後ともなれば、相当の映像を持ってこなければリアリティは獲得できない。

 

2021年10月7日22時41分に震度5強の地震であっても首都圏の交通網は運用停止に追い込まれた。再開までの時間も長く必要であった。時間帯の不幸もあって帰宅困難者がたくさん発生した。

 

鉄道が止まれば人は自動車に頼るしかない。自動車はあっという間に一般道を埋め尽くす。そうなれば抜け道を知っている程度でなんとかなるはずがない。平常の一日でさえこの混乱である。

 

一日で関東が沿岸部が沈むならどういう映像がなければならないか。もちろん、その答えは空想の中にしかない。しかし、死者が数万で済むとは思えないし、倒壊するビルに巻き込まれた人、海に飲み込まれた人、沈下するに伴う海水の流れ込み、その渦潮にあらゆるものが吸い込まれる。

 

もちろん、主人公がそこで魚の餌になるもよしだが、通常はどのような手段に訴えても回避する。主人公は地割れに飲み込まれるが幸運にも助かる。

 

避難所では公衆電話を巡って大人が子供を非難する。当然である、おかあさんがいないと泣いて電話を離さない子供は、もし沖縄地上戦の最中なら殺されても文句はいえない。

 

苦境になればなるほど最大効率で目図すしかない。その過程で弱者から離脱してゆく。先に富める者から富んでゆけ、先富論を掲げた鄧小平はもちろん、弱者見捨てるなんて言えないからドアだけを開けた。それが実現したから習近平は共同富裕を持ち出した。いよいよここが正念場、である。

 

被災者に寄り添うため、誰もいない道を一台の車が走行する。そんな馬鹿な、以外の感想が湧かない。途中で車を乗り捨てる。その前に乗り捨てた人がいたはずである。

 

首都圏に何千万の人間が住んでいると思うのか。主人公が考える程度の事は最低でも百万人は思いついている。予算の都合、分かりやすさのため、想像力の欠如、御都合主義に陥るくらいなら描かない方がいい。

 

首都圏から避難所を訪ねようとする人間がふたりというのは、果たして現実的か。もちろん、最後にそこに援軍が来る事を待つためのストーリーからの要請なのである。だから他の人はいざしらず二人はそこにいなければならなかった。

 

ドラマというものは必ず一話完結的でなければならない。この波の繰り返しが次第に巨大な波になって大団円を向かえる。つまり松山ケンイチ小栗旬が和解する場所は避難所である必要があった。その要諦が、道中二人旅を要求する。だが、ふたりに限定するにしても他にも人がたくさんいるんだという描き方は出来たろうと思う。

 

漫画ならばそれが簡単に出来る。漫画のコマ割りがそれを可能にする。外界を完全に遮断すれば読者は勝手に想像で埋める。しかし実写ではそうはいかない。フレームの外を上手に使うのは漫画やアニメーションよりも難しい。

 

道端に生えている小さな花からさえも季節を感じる、地域さえ決定する。全ての雑草を刈り取れなどと言われたら、ならアニメで表現しろと反論したくなる。SDGs!

 

映像の世界を成立さしめているのは背景の描写にある。主人公の会話も、行動も世界の部分に埋め込まれる。それら全てを包み込む背景がリアリティを支えている。だからあれだけの大地震にも係わらず青空がいつもと変わらないと野中広務は震えたのだろう。


作中では一端、関東は沈まないという事になった。もちろん、沈める気満々なのだから、次にやっぱり沈むという展開が待っている。この時に、一端沈まないと宣言した事が恐らく様々な非難や対立を生む小道具になる。

 

如何なる御都合主義を持ち込んでも構わないが、御都合であるならあるほど巧みに隠さないといけない。その情報がある限り、絶対に人間はそうは動かないというものがある。だから、その情報は隠さないといけない。最後まで明かしてはいけない。

 

日本沈没に関する限り、この感じなら一億人の避難が一年以内に発生する。受け入れる国はどこになるか。企業の資産は全て失われる。美術品は可能な限りくれてやるしかない。国を失った人の悲劇は今の難民のリアルとして知っている。古くならユダヤ人が有名だろう。小松左京の原作からは何となくだが日系人強制収容所のイメージがちらほらする。

 

だが、恐らく製作者たちはそういうリアリティはいらないと考えている。社会に何かをコミットする必要もない。小栗旬が人々に訴える姿に感動して欲しいんだ、そういう思惑で脚本を書いている気がする。だから、Xdayに向かってその御膳立てをきっちりと準備しないといけない。

 

とりあえず、日本全体が沈むという関東よりも巨大な衝撃に対して、どのように人々を纏めるか、という事になるのだろう。どうやって人々に訴えるのか。給料を払う国さえ消えてしまうというのに。そこが、まぁ見ものとなるか。

 

その時の松山ケンイチの存在感、いや、そろそろ日本でも屈指の名優、中村アンの存在感が大きくなってきている。

 

彼女が活躍する一話がどこかにあるはずである。例え、最後はビルの下敷きになって潰れるとしても。それが非常に楽しみである。