配布希望2億8000万枚=アベノマスクで松野官房長官

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李白の白髪三千丈を習った時に、中国ではこれくらい大袈裟に表現するのが古典からの流れで、それが一種のユーモアとなって面白みを増すと聞いた。

 

アジアの文化は西洋の近代国家と出会う事でオープンという概念を得た。権力に対する様々な知見の集積が人類の歴史である。

 

トマス・ホッブズ(1588-1679)は真の恐怖はリバイアサンにあると言い、それは王でも独裁者でもなく、国家権力そのものであると説く。どのような人間であっても権力を手に入れれば豹変する。三日会わざれば刮目して見よとはそういう意味である。

 

人々の集合が国家であるが故、それを超える力は存在しえない。ここには人間を超える存在を想定しない限りで確かに正しく、それを神と想定すれば、神を除いてという意味になる。

 

権力の根拠を追求する事はアジアであれヨーロッパであれ、どの国家でも行われてきた事である。アステカの王でさえ太陽の消滅を持ち出さなければその正統性は語れなかったのである。これらの特徴は、人間の集団の外、常に自然の中に求められてきたのである。

 

正当となる根拠を自然の中に求める。これが科学の発展と非常に相性が悪かった。ルネサンス(14~16c)の開始には、新しい合理性が古い精神性の中に排除する対象を見つけようとして魔女裁判(15c)が起きたし、天文学の発展(16c)には、当然の反発として教会が持っている神の概念との乖離が起きた。教会の権威が失われるのと連動するように新しい権力が台頭する。絶対君主制(16c)は教会の地位の落下に起因する平衡作用であろう。

 

人間の自然権を確固たる概念にしたロック(1632-1704)、ルソー(1712-1778)らによって権力の正当性は紐解かれてゆく。架空の人権という概念が最上位に据えなければ、権力の正統性は維持できない。そういう場所に至った。

 

この考えに基づいて近代国家は成立している。が実体は決して理想通りではない。それでも吉本隆明共同幻想で語られる様に個体間で生じる幻想が国家という概念にまで拡大する為には、幻想の範囲の拡大の為の何等かの依り代が必要であり、幻想が短距離から長距離にブーストする為には何かが必要がある。

 

国家という幻想を信じるためには家族では短すぎる。その延長では決して成立しない。だが村ならどうか、町ならどうか、都市が幾つも連なり、その連合としての国家が成立するには、ある地域内で移動する時に、同じ空間内であると信じるにたる何かが必要なのである。

 

国家はそれを象徴するものと置いた。それを機関説で展開できる国家は健全である。現在はこの国家という幻想に資本主義が食らいついている。

 

羽仁五郎によればファシズムの背景には資本家の欲望がある。それが独占資本の政治的理想と喝破する。彼らの最適解がファシズムにならヒットラーを支持する事もやぶさかではない。その結果としてドイツは焼け野原となった。

 

経済は国家の立つ根本である。だから経済に失敗した国家は成立しえない。だが経済だけを追求する国家もまた将来は短いであろう。なぜなら国家の構成要素が失われてゆくから。それは崩壊へと向かうしかないからである。

 

つまり、民のない国家は現実にはありえない。なぜなら市民は市場であるからだ。市場なくして経済は存在しえない。だが企業が国家を必要としないは有り得る。それは市場を形成するのに国家がなぜ必要なのかという回答に等しい。必要ないとするための条件の列挙に等しい。

 

2億8000万枚と聞いても信用する気にならないのが安倍政権が残した結実であろう。それが本当か嘘かという問題として考える所から始めなければならない点が問題なのだ。どう誤魔化そうとしているのだろうか、まっさきにそう思わなければならない政府をもった国民の未来が明かるいとは思えない。

 

在庫8000万枚に対して2億8000万枚の希望があったそうである。約37万人が申請したので、2,8000,0000/37,0000、一人当たり平均して756枚を申し込んでいる。それは一生につかうマスクの枚数を遥かに凌駕している。誰が何のためにこれだけの枚数を必要とするのか。

 

どちらも8000千万の部分が同じだから、FAXの汚れを間違えて2と読み取ったのではないか。その可能性だって捨てきれない。それでも一人当たり216枚の申請である。まだ多い。どう引っ繰り返しても多過ぎる。どのような知性なら信じられる?

 

例えば中国のコロナ対策は立派である。だが、公表されている感染者数が本当かと問われれば、首を傾けざるえない。かの国も統計データを書き換えるそれなりの理由がある。動機と手段と機会がある。

 

だから白黒はっきりはしないが信用の度合いは下げておく。それでどちらでも対応できるように構えておく。統計は正しく取ったが発表で書き換えたのか、統計そのものが得られてないのか。忖度の統計データでは語れる事は少ない。

 

その統計が問題なのは正確な判断に使えないからではない。信用に値しないと構えなければならないからだ。その繰り返しが人々の行動や思考に与える影響は極めて大きい。硬い岩盤を持たない場所に杭を打ち続けなければならないようなものである。それが国家に与えるものは滅亡さえ視野にいれなければならないはずだ。