屋内でも「2m以上の距離・ほとんど会話なし」ならマスク不要…政府見解発表

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屋外であれば、会話が少ない、会話があっても2m以上、ランニング・自転車、徒歩、鬼ごっこなどの外遊び、屋内でも距離が2m以上で会話少なし。かなりのマージンを取ってもこの内容である。そのような状況ならマスクは不要であるという見解を政府が述べた。政府の圧力によって専門家が折れたのか、専門家の提言を政府を受け入れただけなのか、その背景は分からない。

 

これまでのコロナ対策は三密対策が中心である。密閉、密集、密接の対策が、換気、ディスタンス、マスクになる。マスクは当初それまでのインフルエンザでの実験から感染予防には弱いかと思われたが、原則的には感染予防は、移す、移されるの両方に有効であるというのが結論になっている。

 

コロナといえども軍艦の基本的な行動指針と同じだ。戦術的には射程外からのアウトレンジ攻撃を基本とし、近接する場合には近距離の迎撃、被弾に対する装甲、被弾しても被害を最小限とするダメージコントロールを実施する。つまり、ディスタンス/換気、手洗い、マスク、うがいである。

 

日本の対策の根幹はマスクであって、この点で換気の意味は理解されていない。これは単に理解度の低さだと思われるが、換気は他の人も巻き込むので一般的には面倒なのである。日本人の協調性というのはある意味では人間同士の衝突を避けるという意味でもある。

 

その後の大本命のワクチンが投入され、それで一応の完成を見た。これ以上先は特殊なケースを除けば特にないはずである。残りは健康的な生活サイクル、栄養バランスの整った食生活という基本的な生物学的な基本方針のみである。

 

もともと屋外でのマスク不要論は当初から言われていた。換気のロジックと併せて考えればこれは当然と思える。誰もいない屋外でのマスクがもし必要と考えるなら、これは大気そのものが汚染されていると考えるしかない。これは花粉や黄砂と比較すればよい。

 

もし花粉と同じ濃度でウィルスが舞っているなら相当なものである。特に花粉とエアロゾル中のウィルスの活性期間の違いを考えると花粉以上の濃度でないと理屈に合わない。すると、花粉症地域にある杉の木が作成する花粉の量と同じくらいのウィルスを感染者が放出している計算になる。

 

単純に一本の杉と一人の人間が同量を吐き出すと計算してもどれだけの感染者がいるのかという話になる。人類が持つデータでは日本の感染者はそこまでいないはずである。ちなみに日本にある杉の本数は90億本だそうである。1/100でも9千万。首都圏だけでもどう少なく見ても5百万本はありそう。

 

それでも大気が危険であると仮定する。すると換気はそもそもが危険な空気を取り入れている理屈になる。これが成立するには、それでも屋内よりも屋外の方が濃度が低いとするしかない。そのため屋内での危険度に対してはマスクの効果は極めて小さくなる。それでも換気とマスクで対策するしかないという結論になる。

 

なぜ屋内の方が屋外より濃度が高くなるのだろう。一般的に屋内に感染者がいる場合はそれで正しい。また外気から入ってくる量と外気に出て行く量が等しくない場合もそうなる。屋内に蓄積する方向だと屋内の方が濃度は高くなる。入ってくるけど出て行かない場合は。埃がだんだん溜まるイメージをすればわかり易い。

 

こうなるともうマスクを外す事は感染すると同じである。マスクが例え99%の防護であっても呼吸する度にサイコロを振っているようなものだ。恐らく感染から逃れられる訳がない。

 

屋外が危険なら屋内も危険なはずである。庭の植木や家の壁がウイルスの防壁になるはずがない。よって家の中も危険なのである。これは、お風呂に入っている時や睡眠時もマスクが外せない結論である。そういう生活をしている人は家族から感染者が出たようなケースに等しい。本当にそんな生活を全ての人がしているのか。

 

以上から屋外の大気で感染するという前提に立てば、そもそも、換気、ディスタンスは破綻する。するとマスクしか対策がないという結論に至る。しかし99%程度の能力しかないマスクなのである。食事する時、マスクを変える時も危険度は変わらない。普通は恐怖で発狂する映画のケースである。

 

つまり屋外が危険だと思ってマスクをしている人も、論を展開すれば、そんな事を考えて生活していない事は明らかになる。頭の中でどう考えているかは別にして、屋外の大気は安全であるという前提に立った生活を多くの人はしているはずである。安全な屋外でマスクをしても特に大きな問題はない。つまり人の好き好きで構わない。それだけの事。

 

仮に屋外でウィルスが漂っていたとしても濃度は十分に稀釈されており、それが危険となるのは免疫的に相当に相性が悪いケースとして微妙な数量でも致命的になる場合である。このケースは全体的な統計としては無視してよいはずである。そういう人はそれ以前で既に感染している可能性の方が高い。

 

マスクをするのはいわばファッションである。今回のパンデミックでどれだけの飛沫が日常生活で放出されているかが明らかになった。例えば調理師ながら会話をすれば飛沫だらけの料理が出てくる事になる。だから調理師はマスクして調理する方がなんとなく衛生的な気がする。坂本龍馬ではないが喋れば顔はつばきでぬれるのである。そんなの吉岡里帆でなければごめんである。

 

この程度の知見はダイヤモンド・プリンセス号から始まったパンデミックのごく初期の時点で既に明らかであった。それを今さら専門家が提言するというのも信じ難いと感じる。それを政府が見解を出さないといけないというもの少し変な気がする。問題の根底にあるのはパンてミックでも感染対策でもあるまい。

 

マスクは同調圧力の象徴になっている。それはいつの時代にもある何かだ。この同調圧力は別に日本特有の現象ではない。アメリカにだって同調圧力はあるのである。ニューヨークの街なら好きな恰好で歩けるなど、それは彼らが奇異な目で見られないからではない。日本人が自由だと思う程度のものは彼/彼女/他らからすれば奇異でもなんでもないだけの事。その程度で個性ととかseriously?なだけだろう。

 

集団における恐怖への対抗というものは、我々が群れを作る動物である限り、当然として備わっている能力である。これに対して我々がどのような行動によってそれを乗り切ったか。他の国の人はどのやって対抗したか。パンデミックは有益な記録であろう。