物議かもした「金魚の放流」、7月30日は実施へ 批判を踏まえ新たに対策も

動物虐待という意味で言うなら、金魚を養殖している時点で虐待ではないか。動物は自然で生きることがふさわしい。狭い浴槽の中だけで生まれ、死んでゆくの金魚に自然という自由はない。

それこそが虐待ではないか。ならば自然の川に放流することは、動物虐待とは言えまい。彼らに自由を、という考え方だってできるのである。

当然であるが、自然環境において金魚が生き延びれる場所は極めて少ないように思える。しかし、金魚の元となった緋鮒などは野生種と言われている。

人間が存在しなければ、これほど繁栄できなかったと思われる種は多くいるだろう。微生物まで含めれば、人間とともに消失する種もいるはずである。

一方で経済動物と呼ばれ、人間によって繁栄する代わりに、生殺与奪の権利を人間に渡している種もたくさんある。

動物虐待というのは、いったいどこまでかと言えば、色々な意見があるだろうが、できる限り、無駄な虐待はしない、と考える時、どこまでが無駄かという事は、これまた極めて幅の広い議論である。

よって、敏感な人にとってはそれは自分の身を切られるほどつらい動物虐待であるが、一方の人にとっては、それはどうでもいい娯楽となるわけである。

そのような間にあって、人間同士の調整役を担う行政はなかなか大変なのだ。特に価値観が一定ではなく、総論賛成、各論反対系は、難しい。

そこで、結局はやるのはやるが、反対者のための何等かのメッセージも必要となる。このメッセージが相手の逆鱗に触れるのは話がややこしくなるだけだし、またそれでいいなら、最初から相手にしなければいいのである。

そうでない以上、箸にも棒にも掛からぬ、当たり障りのないメッセージがもっとも無難であって、相手を説得しようだの、相手の同意を得ようとするのが最も、下手打った方法である。

つまり、相手から、あ、こいつは無能だ、バカ相手に話ても仕方がない、と思わせるのが、最も有効的である、という事である。

昼行燈というのは、恐らく江戸時代に生まれた発想だと思うが、これは長い治世の間に生まれたものだろうとは想像に難くないのである。

更に言うならば、太平の時代こそ、日本は組織的運営に長けていたものである。そういう時に、必要だったのは円滑な運営のためのものであって、

一般的にはバッファであるとか、潤滑油と呼ばれる働きが欠かせないのである。そういうものを必要としないのは、ほとんど末期の組織論であって、先行きに乏しいわけである。

これは今の日本社会でも同様であって、アメリカナイズだのグローバルエコノミーだのの言葉に上手い事騙されて(騙された以上、かなりバカな連中だったのだが)、社内のあった、バッファであったり、潤滑油のようなものを失ってしまった。

ぎりぎりのオイルだけで走り回っているレーシングカーのようなものだ。何かあれば、圧倒言う間にエンジンブローを起こしてしまう。

そういう組織論というのが、今はとても脆弱になっているように思われる。強靭さというものの理想を柳の中に見出した我々の先人たちの考え方はとても重要であろう。


一方で生態系の破壊というのは、調査すれば分かることであって、破壊である以上、どこかで金魚の群れが観測されなければならない。恐らく、金魚は一般河川で生き延びれるほどの強さはさほどないだろう。

よって、これは行政も、そのように答申している。

ただ、もし踏み込み過ぎとすれば、「持ち帰られた金魚は、各家庭において大切に育てられているものと認識しております」であろう。

そんなの追跡調査もしていないのか、それで動物虐待が起きていないとなぜ言えるのか、という反論をもらいそうである。

こんな余生なことは言わない方がいい。持ち帰った後は行政の知らない所。それぞれの金魚が幸せに暮らしていることを願っているとしても、言わない方がいいだろう。

しかし、それでもあえて、言ったのだとしたら、そこには何等かの思惑があった、と考えるべきである。この答申を書いた人の中には、虐待ではないことのストーリーを最初から最後まで描こうとしたのだろうと思われたりするわけである。

金魚が生態系を破壊するのか、それは気になる。もし生き延びれるならば、野生種の金魚が生まれるのも悪くはないと思ったりする。

もちろん、わにガメとか、危険種や獰猛的なものは厳しく取り締まる方がいいだろうと思うのである。それは、別に、外来種が悪いという話ではなく、単に、一度、野生化したら、恐らく駆除など不可能だから、可逆性のないことはあまりしない方がいいと思うだけの話である。

しかし、外来種が野生化するなど、これだけ輸入すればあって当然であって、それでもそれまで禁止していたのをあえて認可するようにしたのである。当然のことをして、現状があるわけで、こんなのやらなくてもわかっていたことだし、やらなければ分からなかったなど、愚者の骨頂であろう。

とすれば、輸入を許可した時点で、多くの人にとって、予測された未来がその通りにきただけである。もし、それを本当に問題にするのであれば、まず、認可した政治、官庁と、それを通じて経済的利益を得た業界を追及すべきだろうし、それが本当の問題なら対処するための予算を出させるべきである。

つまりペット税の導入が不可欠と思われたりするのである。

ま、どうでもいいし、どちらでもよいと思うくらいに興味がなかったりする。