例えば、死刑でさえ手ぬるく数年以上の苦痛を与え続けた先でDNA解析と人体実験でしか人類に貢献できないような重犯罪、という程ではない。凌遅刑にするほどではない。しかし明らかに同じ社会で共存する事は不可能であって、もちろん、雇用している企業がある事に驚くが、十分に社会的好奇にさらされ、基本的には社会的信用を失墜させた訳だから損害賠償請求をしない限りは、反社よりの企業と認定せざる得ない状況だろう。
こういう犯罪者についてはどれくらいの実刑が適当かには十分に注目する必要があって、その量刑次第では出所後に同様の犯罪をした場合の責任問題は十分に検討されるべき問題である。つまり量刑を決定した裁判官は一種の共犯関係にあると見做すべきと考える。
どちらにしてもこれでは脳ドッグによる機能的異常と、カウンセリングによる精神的異常の診断を行い、その上で、治療可能性を決定しなければならない。もちろん治療可能なら、再犯した場合の責任は医療従事者にも求められる。
これが犯罪における重要な点であって、更生可能か、治療可能かは殆ど脳に関する問題である。すると、脳がどうであれ、物理的に犯罪不可能性を施す事によって再犯防止は可能である。簡単に言えば足を切断すれば十分となる。江戸時代には犯罪者を見分けられるように顔に入れ墨を施術していた。これも妥当な考えであって再犯防止策としては有効だろう。
なぜ近代司法が身体刑を排除したのか、その延長線上に死刑廃止もある。その一つが基本的人権の確立にある。これは肉体的苦痛に耐えられる人はいない事を根底に置く。しかし、人権を重視する国家でも奴隷にはむち打ちや木から吊るして焼くなどを平気でやってきた歴史的事実から、人権という思想だけでは収まらない。
今では鯨の保護や実験動物への配慮も声高に叫ばれる。ここにも痛みに対する共感がある。これは非常に重要な人間の生物的な理解であって、ほんの数十年前までは魚は苦痛を感じないというような科学的無能が平気で口にされていた時代があった。
戦争は悲劇であるが、それ以上に、戦争に伴って起きるジェノサイドという行為が強く非難される。そして今の所、人類はジェノサイドを止める方法はジェノサイドしか持っていない。これは、どちらが先にジェノサイドされるべきか?という問題に集約する。少なくともガザ、ウクライナの問題を前にしてそれ以外の解答は見つかりそうにない。話し合い?ジェノサイドが終わったら相手も応じてくれるだろう。
犯罪行為の殆どは脳の問題である。故に脳を機能停止させる事が最も確実な方法である。併せて脳の問題であるから、脳が動かす身体に制限を加える事も十分に回避可能な問題である。その意味では社会から物理的に隔離する事も有効な方法である。
しかし、そのための予算は誰が払うのか。津久井やまゆり園事件の犯人が未だに税金の無駄を主張して反省していないのはその典型例と考えられる。死刑囚が生きながらえるのも冤罪が絶対にない前提でなら税金の無駄使いだろう。この犯人は自分が殺傷した身体障碍者と同じくらいに税金の無駄遣いをしているはずだが、自分を自ら殺傷したという話は聞かない。矛盾である。
だが、少なくとも被害者は収監している間の食費も水道代も払いたくない筈である。これは当然の権利と思われる。もちろん、事件の発端にこの被害者に何の落ち度もない事が前提にあるが。
死刑囚に被害者の税金が投入されるなど耐え難いに違いない。あたたかな布団でさえそのひとつの繊維でさえ自分の税金が投入されるのは許しがたい事だろう。これを敷衍すれば、犯罪者は収監中の食い扶持は自分で稼ぐべきとなる。親族からの寄付やクラウドファンディングで稼げないなら餓死やむを得ずだろう。
所が、日本国憲法第25条は「健康で文化的な最低限度の生活」を求める。この条文に犯罪者は除くとはないから全ての日本の主権に及ぶ範囲に居る全ての人々への要求となる。憲法の理念は国籍で区別もしない。この憲法はすべての人にそれを求める。よって犯罪者も最低限の生活は保障されなければならない。
犯罪者に生活だと、ふざけるな!と言いたくなる気持ちも分かるのである。実際に、牛久の入国管理センターでは人が死に、高尾警察署でも外国人容疑者が死亡する。診察した医者のコメントさえいまだ得られていない。小林多喜二の再来?甘粕大尉気取り?
人間の脳はこの星でこれほどの大繁栄をもたらした直接的な理由であるが、その過程では様々な地域と色んな時間の中で直視に堪えないような様々な行為が行われてきており記録に残っている。よくもまあそんな事が出来たなという感想も今の時代の甘さだと言われるかも知れない。それでも相当に痛みに対する共感が失われていた瞬間がある。
それが単なる栄養失調なのか、幼少期のPTSDによるものなのか、しかし生まれながらのシリアルキラーという個体も時々は出現するのであるから、それらの全てが脳が現実とコミットしようとする現れだとしたら。少なくとも、シリアルキラーと石井四郎に何の違いもないだろう。個人ではなく組織であった分だけ731部隊の方がよりたちが悪い。しかも天寿を全うしている。
つまり、この社会は被害の小ささについては相当に無頓着である。再犯についても司法制度は相当に無関心である。そんな所まで気にしていては組織が成り立たない。それはそうだろう。国家的な犯罪でさえ一人二人の被害なら問題を握りつぶして平気である。天寿どころか勲章さえ要求する。書類ごと燃やすのにも躊躇しない。後世の歴史に対しての責任など果たす気はない。墓までもってゆくというのが国家への貢献だと本気で信じている。未来の人からすれば国家反逆だろうと思うのだが。
だがたったひとりの被害者で済ませてよいとは思えないのである。幸い整形医療の発達や義肢の開発によって身体刑は許容範囲に入ろうとしている。
重犯罪でないのなら死刑の方が簡単、熊と同様に駆除すべきか。保健所で安楽死という方法もある。本当にこれを人間として扱っていいのか?そういう世界の切り取り方をする脳の機能が、奴隷船から衰弱した人を海に放り投げる船員たちを生み出したのだろうか?それともその残虐性は遺伝子のあるひとつの顕性形質に過ぎないのだろうか。