AIの未来はどこまで見通せる? 3人のプロが語り合った。

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AI を人間側によせる考え方が面白いとは思わない。その行き着く先は、よく教育された優等生を育てるのと何も変わらないだろうから。その程度の人材など人間で十分である。

 

人間は時代の限界を超えられないとか、人間であることからは抜けきれない、という考え方はある。奴隷解放で著名なリンカーンがインディアンに対しては虐殺まがいの政策を遂行していたとか、後世に名を残すのも大変な話である。

 

当時には当時の常識がある。考え方がある。その価値観を抜け出すには今しばらくの時間が必要であった。だがアメリカの奴隷よりも、ギリシャの奴隷の方がまだ平穏な人生が送れたかも知れない。時代が常に前向きとは限らないのである。

 

一方で2000年も前の青年の話を今も大切な話として信じる人もいるし、どっかのこじき坊主の話をやはり重要と考えて生活する人もいる。中国のニートの話なんて、今でも深く、この国の文化の底流を流れている。裕福な商人の話を聞いて、爆弾を抱える人まで出てくる次第だ。

 

人間は人間であることを超えられるのか。この命題に対して、アーサーは幼年期の終わりを書いたように思うし、竜の卵では昨日まで砂漠を漂っていた生物に、あっという間に追い抜かれる人類が描かれていた。

 

我々は未来に向けて着実に歩みを、揺り戻しに合いながらも、進んでいると考えるが、それがもう壮大な人間の勝手読みというやつだろう。そこでAIの登場である。AIとは莫大な情報の中からある規則性を見つけ出す機械、と考えればそう遠くない。

 

つまり、特定の論理性でデータを切り取る機械とみればよい。情報革命はAIでひとつの到達点を得るだろうと思われるのである。あらゆるデータを処理させれば、当然人間の思惑などとは何の関係もない結果が得られる。その結果が常に人間の耳に心地よいとは限らない。

 

 

こうして見ると AI の最も優れた特徴は空気を読まない事である、と思われる。当然ながら、AIに対して多くの人間は空気を読めという。ADHD(attention deficit hyperactivity disorder)やアスペルガーに対する理解が進もうとしている時代に、なぜ AI だけはそう時代錯誤にするのか、という話である。

 

人間に近づかなければ、人間がその考えを理解できない、という話をしているが、もちろん、近づくべきは人間の側であって、AI の方から歩み寄る必要はない。人間に理解できない物事を、人間はどうやって理解するか、という事について、我々は問われているのである。問われているのはAIではない。

 

テロリストさえ理解できない我々に AI の結論を理解できるのか。囲碁棋士でさえAIの棋譜を理解しつくせないというのに。だが、もちろん、理解できないのは AI の棋譜ではない。囲碁そのものなのである。

 

我々は一歩ずつ論理の道筋を辿る以外の方法を知らないのである。その当然の帰結として、誰かが論理的と考える事も、ある人には飛躍と感じられる。または乖離と映る。それが AI でも同然起きるだろうと思われるが、もちろん AI を待つまでもなく、多くの人にとって量子力学とか数学の話だって似たようなものだ。

 

我々が論理性と呼んでいるものも、もしかしたら言うほど論理的ではないのかも知れない。あるステップから次のステップに遷移するのに、我々が論理と呼んでいるものは、本当に正しいと言えるのか。それは単に前提条件による帰結に過ぎないのでないか。もし前提条件が変われば、論理の構造が同じでも、まったく異なる結論に至るかも知れない。

 

 

そこから疑えば、論理学そのものを見直さなければならないという話になる。三段論法からして疑うべきではないか、という話になる。逆に言えば、新しい論理に対する考え方が必要な頃、という点で AI の登場は喜ばしい。

 

囲碁でさえ新しい考えの導入が必須となった。そして AI もまた囲碁というゲームに答えを出していないと思われる。確かに我々は宇宙人を想定して論理というものを考え直す時代に来たのかも知れない。彼らが連れてくる AI は AlphaGo 相手にさえ全勝するかも知れないのである。なんという世界だ。

 

いずれにしろ、それは人間色に染めない AI を使ってこそ分かる事であろう。我々の歩みを止めてはいけない。