高校「生物」 暗記から考える科目へ 日本学術会議

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生物は暗記科目ではない。と主張するが、テストを見れば一目瞭然であって、暗記科目である。少なくとも、暗記すれば高得点が得られる。どれだけ、例えば学習要綱を超える生物の仕組みや進化論などに詳しくなっても、用語を知らなければ高得点は望めない。そのようにテストは作られている。よって出題者が学習者に求めているものが暗記であることは明らかである。

 

日本学術会議がどのように主張した所で、その現実の前では、学者先生の戯言、迷惑な理想論でしかない。もし、自分たちの主張を通したければ、やってみせ、やらせてみせ、ほめてやらねば、社会は変わらずである。

 

つまり、暗記科目ではないと主張したいなら、暗記でなくても解ける問題を作ればいいだけの話である。それがない限り、テストは究極的には用語の暗記をもって、理解を測るしかない。

 

そもそもテストは個々人の理解度を測るためにあるのではない。そこが肝のように思われる。テストの目的は大勢の生徒に順列を付ける事である。全員が100点を取るテストも全員が0点を取るテストも求められていないのである。

 

習熟度を測るテストというものも勿論ある。学習塾が行っているテストがそれであって、それは勿論、入試のための作戦を組み立てるために必要なものであって、それによって特定学習重点分野を見つけ出そうというものだ。

 

しかし、そのようなテストであってさえも、対象とするのは個々人ではない。不特定多数の生徒たちを大まかなグループ化に分けたいためにある。進学コースとか復習重点コースとかに生徒たちを効果的に分類したいのだ。

 

一般的に言えば、大学入試くらいまでは暗記が最も効率よく高得点を得られる方法論であって、思考力を試されると思われている数学でさえ、例えば良問と言われるものも、入試の肝はどれだけ多くのパターンを記憶しているか、つまり暗記である。暗記という言葉のイメージが悪いならば、経験と呼んでもよい。つまり暗記だって経験の一種である。

 

学習参考書は基本的に入試に出される問題をパターン化して、その代表的な問題を解くよう薦めるのが理想的である。だが余りに効率的な試験対策が広く行われるようになると、今度は試験を出す側が困る。どうやって差をつけようかと苦労しているのに、その手法が使えなくなるからである。そのような米ソ対立のジレンマのような関係性に両者はあるから、良い言葉で言えば談合、悪く言えば、手打ちをやっている。

 

早い話、勘の良い生徒だけが最短ルートを通ればよいのであって、それ以外の生徒には王道を通ってもらうように指導する。学習する力をつけるだとか、考える力を育てようとかチャフ、フレアの類であって、そういう建前によって多くの生徒には真っ当な学習をしてもらいたいのである。つまり生徒たちの素直さを当てにしているわけである。

 

試験勉強だって立派な勉強のひとつで、そこで学習したものは、ずうっと先まで役立つものだ。若いときに脳を鍛えるのは脳の基礎体力を底上げする点でも重要だ。それはスポーツ選手にとって地道なランニングが全ての基礎にあるようなものだ。

 

だからといって、試験が学習習熟度を測るという考えは幻想なのだ。それが証拠に最も良いテストとは、点数のばらつきが綺麗に分布するものなのである。教育者が大多数の生徒を前にして考える事と、親が自分の子供を前にして考える事の間には微妙な差がある。その違いが、考え方の差として大きくなるのは自然な事だ。

 

さて、日本学術会議がどういう意図でこのような働きかけをしたかを想像するのも興味深い。そもそも、生物学を学ばずに入学する生徒の数に対して危機感を持っている所からの話である。その危機感の原因を生徒たちの暗記に求めている。

 

大学入試センター試験での選択は、化学20万9540人、物理15万6842人、生物7万4714人である。どうやら受験者数には3:2:1の関係がある。

 

これは2000もの用語を覚えるくらいなら、もっと簡単に点数が取れる科目がある、と生徒たちが戦略的に行動した証拠であって、そこで暗記量を減らすことで生物の選択肢を増やそうとという戦術である。

 

だが、逆に考えれば生物学は2000もの用語を覚えなければ点数に差をつけにくい教科である、という事の裏返しだと思われる。化学や物理だって、もちろん、覚える量は多いし、それを理解するのは結構 難しい。

 

更には公式を使って問題を解くという経験も積まなければならない。それでも、生物学を暗記するよりは楽だろうと分析した結果なのである。大学入試程度の生物学ではおそらく、計算問題は少ないのだろう。分子生物学くらいまで行けば、数学の連続になりそうだけど。

 

いずれにしろ、自分たちの教科をどうしたいのか、それが入試とどうリンクするのか、その先にあるのは予算の話だ。教育も突き詰めれば金である。もちろん、これは子供たちの成長とは何の関係もない話である。生物学は、科学はこんなにも面白いんだよ、と中学、高校時代に知ることができた子供たちは幸いである。

 

いや、日本学術会議内閣府の特別の機関)としては、受験者数のばらつきを是正したいって提言を以って、自分たちの存在意義を主張したいだけかも。うがった見方をすればね。

 

そして今後の展望としてはAIの発展がこれらを解消するかも知れない。現在のようにテストでしか個々人の習熟度を測れない状況から、学習する子供たちにAIを持たせて、AIを通して学習することで、その子供の習熟度、理解度を AI が測定できるようになるかも知れない。それはテストで把握するよりもずっと正確で細分化された情報のはずだ。

 

そうなるともう試験を受ける必要性ない。そうしなくても学習の習熟度も適不適の能力も得られるようになるのだから。そうなったときに、教育というものはどのような変遷をするのだろうか。そのような世界になったとき、企業は必要な人材をどうやって確保するのだろうか。もちろん、マッチングする仕組みが誕生するはずである。その未来はもうすぐ来る。