長期低迷 どうしたフジテレビ

攻めから守りに転じた時によく負けるのは世の常だろう。囲碁でも、タイトル戦にも係らず、守りから温い手を打って逆転など枚挙に暇がない。

それがポットでの新人というのなら良い経験だったねで済むが、タイトルを何度も獲得して、絶頂期にあるような棋士でもそうなのだから、なかなか難しい。

手を緩めるということはAIにはないだろうか。AIが手を緩めるというのはないだろうが、より確実な手で勝利を決めようというのはあるだろう。東京大阪間を移動するのに、新幹線はありだが、わざわざ在来線を乗り継ぐのはもの好きだろう。

よって堅実な手、確実な手の中には魔物が住んでいる。当然ながら、勝負手、必死に攻勢しようとする手にも魔物が住んでいるのである。

だが、結果に対する印象が全く違う。負けるかもしれないところからの勝負手は負けても善戦であるが、勝っているところからの攻めて負けるのは、もう惜しいとかでは済まない。そう打たなかったら勝っていたのにという後悔の念が強い。

ゴルフでもショートしたのはすぐに忘れる。しかし、オーバーしたのは、強く怪訝の念が払拭できないのである。

なぜと考えてもよく分からない。恐らく脳は効率化を貴ぶ。よって足りないのは足せば目的地に届くか、オーバーするのは、後戻りしなければならない。強すぎることによる失敗は、足りないよりも無駄なエネルギーを浪費した分だけ、懺悔が2倍になるようだ。

もちろん、急がば回れ、道草には意味がある、過ぎたるは猶及ばざるが如し、など、人間の知恵はそういう脳の自然さを戒める。必ずしもそうではないよと。

だが、それでも一度でも頂点に立った人間が、もう一度降りてゆくことは難しいのだろう。フジテレビなど、社長自らが、「剛腕が傲慢」に変わったと認識しているが、映像で見るフジテレビの社長の人柄は、もう傲慢さ、慢心さがにじみ出ている。本人がいくら否定しようが、実際そんなつもりはなくても、長い間に体にしみ込んだ臭いはどうしようもなかろう。

反省すべきは、過去にはない。失敗をいくら振り返ってもよい。そこに発見も後悔も見つかるだろう。だが、過去に縛られて居る状態からどう抜け出すか。これは難しい。

昔、ウェイン・レイニーというGP500ライダーがいた。彼は先頭に立ってからが速かった。それを称して解説者が、彼の走りは首位にあってもだれかを追いかけているようだ。きっと自分の理想的な走りが常に彼の前を走っているのでしょう、と言っていた。

戦っているものは、常に緩まない。勝利が見えた瞬間に闘いを放棄するというのは、勝負の厳しさに鈍感なのだろうか。それともそれ以外の何かがあるのだろうか。緩んで負けることほど恥ずかしいことはない。

だが、緩んだ気がないのに、周りから緩んでいると言われるのも辛いものがある。当人にその自覚がないのだから。その乖離をどう埋めるかにフジテレビも迷走しているに違いない。

フジテレビは戦っているつもりだろう。しかし、実際は戦っているのではない。波に乗ろうと必死になっているサーファーみたいなものだろう。波があれば、自分の波と合わない時はある。合えば増幅するし、最悪な時には打ち消し合う。

実は何も変わっていないのに、世間の波と波長が合っていないだけという場合もある。そういう時は、色々変えてみるしかないわけである。変えたからと言って修正できるとは限らない。だが、時間が自然に解決する場合もある。

フジテレビでも有吉の番組などは結構面白いというか地上波の割には攻めている感じはある。それが楽しくてみるわけだが、それでも、どうもスタッフたちの臭さというのが感じられてしまう。

頂点に立ってしまったものは、自負や矜持を持ってしまうことがある。これは、頂点に立たなければ得られないものだ。故に、それが人から嫌われる理由になる。それを嫉妬と呼んでもいいだろう。だが優越感を持つ者は、必ず劣等感を持つものは見抜く。

一人一人を見ればフジテレビのスタッフだって優秀だし、慢心していないし、ぎりぎりのところで攻めようとしていたり、日々なにか面白いことはないかな、面白さは何だろうと考えているに違いない。

だが、よく考えてほしい。テレビ局の業務とは視聴率を取ることか。テレビ局の顧客とは一般のテレビの前の視聴者か?違うだろう。

テレビ局の業務は広告を流すこと、顧客とは広告主である。彼らに気に入れられたくて、面白いコンテンツを欲している。ところが、今のフジテレビの広告の入れ方というのは、広告主には喜ばれるだろうが、視聴者の許容をはるかに超えているだろう。たった5秒の映像でひっぱるために2分も広告を見せられるのである。

自分たちのコンテンツには人生の中の時間の2分を捨ててでも5秒には価値があると主張しているのである。だが本当にそんな価値があるか?新垣結衣とベットの中にいるのとは違うのである。

それに気づいていない点が、恐ろしい。彼らが幾ら振り返っても見つかるわけがないように思える。やっていることを丁寧に見てゆけば、見ている場所が全く違う感じしかしない。